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【仕事編・初めてのアルバイト喫茶店】 0ポイントと出会う旅

初夏の気候かと思えば長袖に上着の今日です。
いつもより翳っている一面ガラス張りの窓辺に緑がしっとり、心地いいカフェです。

初めての仕事でいえばアルバイト。
実家のある市の繁華街。
今から言えばレトロ、40年近く前の当時ではどこにでもあるような喫茶店。

〔やること・タスク〕
・お客さんが入ってきたら「いらっしゃいませ」と声をかける
・席に着いたら水を出す
・頃合いを見て注文をきく
・注文表にボールペンで品物を書く
・厨房にオーダーを告げる
・注文に応じたスプーンやナイフなどを料理の出てくる前にテーブルに置く
・時間の長いお客さんには水を継ぎ足しにいく
・お会計をレジで行う
・時間があれば店内の清掃と洗浄済みの食器やカトラリーを拭いて定位置にセットする
・ナプキンを三角形に折る
・三角のナプキンでスプーンを包む

書き出してみればたったこれだけのこと。簡単なことのように見える。
ここ〔やること・タスク〕に〔環境〕が重なってくる


〔環境〕
・喫茶店の店長と従業員が昔やんちゃをしていた夫婦(たぶん雇われ店長でオーナーは別)
・アルバイト従業員はわたしだけ
・高校生ということで最低賃金下回る時間給
・メニューが飲み物と食べ物といろいろ

〔立場の不平等〕
わたし以外が夫婦、って。
これはどういうことを意味するか。二人はわたしを簡単に仲間はずれにする。
当たり前だ。わたしは二人にとってよく知らない他人。使用人。
レジ締めで、金額が合わないことがあった。
レジで会計をするのは店長の妻とわたし。足りなかった時どうなったか。
二人はわたしだけの責任にした。そしてわたしの少ないアルバイト代から差し引くと決めた、その場で。
わたしの味方をしてくれる人はそこには存在しない。
味方でなくてもいい、せめて公平に見てくれる人がいたら違ってくるだろう。

〔作業を遂行する不平等〕
今から思えば、わたしには「あっちこっちにつながり線が広がっていく」という傾向があるように思う。

刺激の素があり、それと接するわたしの身体があり、粒になりつながり線へとつながっていく。
このときの刺激の素と接する受容体がわたしは多いのかもしれないし、キャッチする感度が敏感なのかもしれない。

接客業は日々、知らない人と接する。
「人間」という点では同じだが、ひとりひとりまったく違う。
「違い」は、わたしをいちいちビックリさせる。
ビックリしていたら仕事にならないのでじっと押さえ込んで遂行しようとする。

また、注文に応じて先に準備するカトラリーだが、これは、品物によって違っていた。
〔例〕
・クリームソーダ=長いスプーンとストロー
・プリンアラモード=小さめのスプーンと小さめのフォーク
・スパゲティ=大きめのフォーク
・アイスクリーム=平たい小さめのスプーン
など

料理が出来上がったらできあがったことを厨房から声掛けがある。
これが怖い。すぐに取りにいかなければ料理は冷めるし、アイスクリームは溶ける。呼ばれたらビクッと体が反応して「はいっ!」と向かう。
しかし、その時、注文を取っていることもあるし、ドアから新しいお客さんが入ってくるかもしれないし、お客さんがレジに会計をしに向かうこともある。

わたしは「拾いやすい」ところがあって、たぶん、先に書いた「粒がつながり線になる」が浮かんできやすい。まだ「星座」になってはっきり「これは〇〇だ」という答えの手前で「先を読んでいる」。
これはどういうことかというと、可能性をたくさん生むということ。「星座」の手前の状態って、可能性でいっぱいなのだ。
「星座」に落ち着いて初めて、意味として言葉になったり人と共有できたりする。
「可能性に溢れる」は、そうしたいからそうしているのではなく、そうなってしまう。身体の癖というか特徴みたいな感じ。

自分がその物事の外にいるときにはボーッと見ているだけでいいのだが、そのうち象られていく「星座」を「ああそうか」と眺めていればいいのだけど、実際、保育園の頃や中学生くらいまではそんな感じだった。
目の前に起きていることを、そこに入れないで、外から眺めている感覚。

目の前の現実に自分が参加しているとなると、これがどうなるかというと、「つながり線」に振り回されることになる。
また先に書いた「受容体が敏感かもしれない・多いかもしれない」は、仮説でしかないけれど、もしそうであれば、粒になりやすいし、粒になれば有機的自律運動のはたらきで、つながり線の運動は活発になりやすいだろう。

(すみません、なんの妄想の話だ、って感じですけど、
自分の実感にだけ忠実に主観の言葉で書いていきます。
まずは、自分の感じていることをないことにしない。自分で自分をジャッジしない。その後のことは、その後のことなので。
「有機的自律運動」などの言葉は他のページにまとめています。このnoteの下に案内してますのでそこから飛んでください)

ひとつひとつの〔やること・タスク〕は単純であっても、いくつも重なることで、わたしはその全てのつながり線の可能性に溢れている。「星座」に落ち着けない。

それでなにが起きるか?
〔身体の特徴の不平等〕
・ズレる。「つながり線の運動」と「星座」とのズレ。
・ズレる。わたし以外の人の「星座」と、わたしの中ではたらいている「つながり線の運動」とのズレ。タイミング。
・人とズレることでその調整にコストがかかる。
・コストがかさめばズレの調整は間に合わなくなってくる。
・わたしのしんどさは他の人に伝わらない(なぜならわたしという個体で有機的自律運動は起きているから)
・一人でしんどさを抱えることになる。

というようなことが起きていたような気がする。

間に合わないとどうなるかというと、いちいちビックリすることになる。
ズレるから。間に合ってないから。
責められているように感ぜられるし、責められなくても間に合ってなくて自分で自分を嫌になるし。

例えば先に書いたように、厨房から怒号のように料理ができたと声がかかる。実際、厨房も店長一人でやってるから忙しい時は極まる。感情的な声になる。
でも、事情がわかっても、怖いんだよねえ。怒鳴り声だから。
わかってます、って、言いたいけど、そんなふうに言えるのは妻だけでわたしは「はい」と言って向かわなければならない。

そこに「注文お願いします」とお客さんから声かかったり、あ、先にテーブルにカトラリー置きにいかなきゃとか、お会計に人が並んだ、とか、聞いたばかりの注文を早く注文書に書かないと忘れちゃう、とか、カトラリー置きにいくけど、あれ、プリンアラモードはあのテーブルの4人のうち誰だっけ、とか。

わたしの他にアルバイトが、人数がいればいいだけの話かもしれない。
書きながら笑っちゃった。

ああーーー、ビックリした!
今、後ろの席でくしゃみが。
でかいよ!くしゃみが!
こんなだから、もう、いちいちビックリするんです。そういう身体なんです。
わたし以外に誰もビックリしてる様子がないんだけど、この自分以外の多くの人との差も、わたしにとってはしんどいわ。

〔立ち位置の不平等〕
さて、戻りますが、
人数さえいれば、協力し合えれば滞りなく施行できる現場も、わたし以外がわたしより特権的だったり、年齢とか立場とか関係性とかでね、そういう立ち位置の時にはやっぱり、割りを食う立ち位置っていうのはあって、その現場では平等なんかなくて、もっとも声を上げにくい立ち位置から見える不平等は、発生する。

そこは、夏休み中行って、その後は辞めることができた。


※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。

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