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【仕事編・コーヒーカウンター】 0ポイントと出会う旅

早起きできて歩けて気分がいい朝です。
緑の間から見える白い大きな雲と青い空が気持ちいい朝です。

前回までに、初めての転職について書いてきた。

初めての転職に挫けたこと、どうやってもそれ以上はがんばれなかったこと、自分にかけた期待が自分に裏切られたような、情けない切ない気持ちだった。

23〜4歳だったと思う。
この先、どうあれば生きられるのだろう、という気持ちに落ち込んだ。

将来が不安で仕方なかった。
思えば、「集団に居られている」という感覚を感じられないままここまできてしまった。
高校演劇部の時だけが、初めてで、例外的に、その場に居られる感覚が発生していた。

それは「粒と星座」の視座から言うと、

なにか「唯一で絶対な集団の輪っかに沿うこと」を強制されていない。
それぞれがそれぞれのままでいい。
それで全体がゆるくひとつの方向(いい演劇をつくる)に向いている。

そんな集団の中に在るとき、わたしの有機的自律運動はイキイキはたらいていた。
自分の0ポイントに至る可能性に開かれていた、と言えると思う。


もしかしたら、ずっと、そういう状況を追い求めてきたのかもしれない。
つい最近まで。
「粒と星座」の言葉が出てくるまでは。


転職に挫けていたわたしは、しばらく休んだ後つなぎのつもりで、ある自動車会社のショールーム内にあるコーヒーカウンターのアルバイトに就いた。

外にはその会社の自動車がズラリと並んでいる。
ショールーム内にもピカピカの車が置いてある。
商談のテーブルが並んでいる。
その一角にコーヒーカウンターがあって、わたしはコーヒーを淹れている。

お客様がみえたらもちろんお出しするし、
営業の人もカウンターにふらりと飲みにくるし、
昼食後に社員がやってくることもある。
偉いさんも、ふと立ち寄っていく。

わたしはその会社ではどのポジションにも収まらない、はじめっから外れた存在だった。

それは、心地よかった。

わたしはその会社のどの人とも利害関係になかった。
お客さまでさえ、コーヒーは無料だったから利害関係にない。
まるでよそ者が、コーヒーを淹れてくれている、というようなポジションだった。

わたしといれ違いで辞めていく先輩が、わたしにコーヒーの淹れ方を教えてくれた。
粉から淹れる経験はこの時が初めてだった。
すごく、おもしろかった。
ぷく〜っと膨らんでいくコーヒーの粉が、すごくおもしろかった。
その様子は生きもののようだった。
香りもいい。
わたしはわたしが悦んでいるのがわかった。

十分に「刺激の素と反応して粒になる」を体験していた。
コーヒーの豆が、粉が、お湯が、フィルターが、気温が、空気が、空間が、わたしの細胞が、あらゆるものがすべてそれのままに応答しあっている。
粒がつながり線になり、有機的自律運動にはたらき、それぞれの0ポイントを指向している。

そこになにか強く強制する力は介入してこない。

たぶん、そんなふうに現れた「コーヒー」という現象は、飲む人にとってもしあわせな感覚がもたらされるのだろう。
誰もが、「おいしい」と、言ってくれた。
わたしも、その通りだ、と思った。
おいしい。
ほんとうに、こんなふうに現れたコーヒーは、おいしい。

有機的自律運動を邪魔しない、
それがコーヒーがおいしく現れてくることに通じている。
なんて豊かなことだろう。

わたしは、そんな風にコーヒーを淹れられることに満足感があった。

満足感に満ちたわたしがコーヒーカウンターに立っていて、
ポツポツと立ち寄る人もまた、しあわせそうだった。


おいしいコーヒーが飲める、
そんなことだけが、
わたしの立つコーヒーカウンターに人を引き寄せる。

たわいもない言葉をいくつか交わして、
おいしいね、と顔をほころばせて、
それぞれの人がそれぞれの仕事に帰っていく。


わたしは外れ者の、利害関係にない存在として、存在できていた。
有機的自律運動のはたらきの中にぽっかり浮かんでいるみたいに。


つなぎのつもりで就いたこのアルバイトは、思いのほか、わたしに豊さをもたらした。


※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。

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