【有機的自律運動】 わたしの「記憶」の成り立ちからみえること
運動なんだな。
記憶って。
わたしにとっての記憶って。
勝手に動き出す運動。
つながりだす。
ひとつポチョンと池に石が入ってくれば波紋が広がるみたいな。
池に風が吹いたら水面がさざなみ立つような。
風が吹けば桶屋が儲かる的な。
バタフライエフェクト的な。
接触する→応答が起きる→展開が起きる→なにかと接触する→応答が起きる→展開が起きる………
粒とつながり線の軌跡が記憶になっている。
だから、次になにかと接した時に「思い出し」が起きる。
つながり線が先へ先へと走り出す。
「思い出し」に主導される感覚。
この感覚、
粒→ざわり→つながり線→星座→粒→ざわり→つながり線→星座………
というような自動で起きてくる運動
この一連の運動を「有機的自律運動」と呼んでみる。
字の如く、有機的に自律ではたらいている運動。
「自然」という文字は、「おのず」から「しかる」と書く。
それとほぼ同義と承知しているが、
「自然」と書いてそのように意味を読む力をわたしは失っているから、あえて、有機的自律運動、と呼んでみることにした。
星座は、その時々の瞬間に、見えていれば認知できるし言葉にできるしというだけのことで、実態は「変化の、ある一点」にすぎない気がしてしまう。
確固たるものが自分にはいつまで経っても発生しないし
確固たる主体性みたいなものも発生してこない。
大人になったらそういうのも自然と生まれてくるかと思って期待してきたけど
あれ 55歳 すっかり大人
大人を通り越し中年
も通り越し、老年へと突入している。
おっと、寄り道した 🌱
こんなお天気にはのんきにふわふわと寄り道だ。
木の枝も風にゆさゆさ揺られている。
踊っているみたいだ。
けど、寄り道って、じつは寄り道じゃないとも思っている。
寄り道に思えることが「有機的自律運動」の表れなんだから。
次回は記憶と有機的自律運動について書けるといいかな。
そっちかこっちかあっちか。
どっちだ !
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