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【仕事編・星座に至れなかった粒とつながり線→有機的自律運動の現れのそれぞれ】 0ポイントと出会う旅

山盛りの木々に囲われた広い公園の中へゆっくりと続いていく道を歩いていた。
人がまばらに散らばっている。
歩いている。
立ち止まっている。
語らっている。
電話している。
ランニングしている。
休日にそれぞれが夏の朝を楽しまんとしている。
道沿いのベンチに人が座っている。
モータウンの曲が流れている。
その人が手にしている機械(テープレコーダー?ラジオ?スマホ?)から流れている。
遠くでラジオが鳴っている、その音の運動にまとわりながら自転車を漕いでいる、わたしの中で過去の軌跡が自動再生されてくる。
「なつかしさ」がやってくる。

前回、下記のような記述が出た。

そしてなにより、演劇をして、その時間を共有していれば、伝わる。
伝わるのだ。
嘘か、嘘じゃなく居られているか、が。

だからすごくシビアともいえるかも。ゆるく甘いわけでもない。
問題は起き続けるし、表面化しやすい。

だけど、正直な感じがある。
有機的自律運動のはたらきに正直に居る感じがある。

「有機的自律運動」の「はたらき」に正直とは、どのような状態なのだろう。

いちいち自分の0ポイントに触れている状態だろうか。

わたしたちは常に刺激の素に接している。
有機的自律運動がはたらいている。
もし個体である場合(例えばわたしは人間という一個の個体だ)自ずと、自らの0ポイント(応答が叶っている状態)に落ち着こうとはたらきは向かっている。
その「0ポイントに向かっているはたらき」を邪魔しない、驚きながらノッていく、そして展開していっている。
そういう状態だろうかと想定してみる。

その場に居られた時期の身体感覚を思い起こしてみる。
硬くない。
まるで有機的自律運動のはたらきに任せているかのように気持ちは軽い。
悦びにあふれている。
楽しい、ばかりではない。
「怒り」も「悲しい」も起きる。
だが、それの中に存分に居ても大丈夫な感じ。
「はたらき」がどんどこ展開している。

こういう状態のとき、「笑い」が起きやすい。
もっと正確に言おうとするなら、「笑いが起きやすい身体、状態」になっている、と言ってみよう。

例えば「腑に落ちる」と、フッと力が抜けるように、おさまりがいいというか、それでじわっと身体に「悦び」が染みてくる、というような感覚に似ている。

「刺激の素→粒→つながり線→星座(=新たな刺激の素)→粒→つながり線→星座(=新たな刺激の素)………」

と、「はたらき」が展開していく感じ。

有機的自律運動のはたらき

同じような繰り返しに見えることも、有機的自律運動はいちいちはたらいていて、接しているお互いの応答が叶うところに向かってはたらいている。

有機的自律運動のはたらき と 星座・まとまり点

その場で接している同士(空気とか湿気とか気圧も含め、個体も、気体も、液体もあらゆるものすべて)の間で、お互いは刺激の素であり、有機的自律運動は始まり続けている。
ある星座にまとまっても、それが更なる刺激の素として有機的自律運動は始まり始める。

星座・まとまり点=A
とすると

A→A’→A’’  ……
と続いていく。

その場の刺激の素によって、少しの差で、星座・まとまり点の行方は少し違っていったりする。

この、AにもBにも成る、に任せて、有機的自律運動を尊重できたら、どうだろう。


例えば、
ここに、氷がある。
コップに水を注ぎ、氷をその中に入れる。
氷と水はお互いが刺激の素になり、お互いの落ち着くポイント、0ポイントに向かって有機的自律運動は始まっている。
室温が上がれば、それも新たな刺激の素になり、溶けた氷は水となって更にぬるくなる。
それらの間に現れる0ポイントはどんなだろう。
星座・まとまりポイント=コップの中に収まったぬるい水
のようだろうか。
この落ち着きに至るには、そう成るまでのはたらきがはたらき続けているのであり、わたしたちには「時間」として現れて見えるかもしれない。

人間が、ここに加わると、例えば冷蔵庫にコップを入れて水を冷やすことをするかもしれない。
次に飲むときにおいしく感じるかもしれない。
人間はこのように工夫をする。

だけど、この工夫が、有機的自律運動を無視した介入になるとどうだろう。

「便利」「効率的」「速い」などが目的になると、容易に有機的自律運動は無視されやすくなるだろう。


いのち=応答し合っている現象

と、このnoteを始める最初に仮説を提示してみた。

個体も液体も気体も、見えるものも見えないものも、応答し合っている。

歩いていて、石ころを見る。
枯れて茶色くなったカサカサの落ち葉を見る。
固い鉄にぐにゃぐにゃ沿って育っている木を見る。
それらは「硬い星座」に落ち着いているな、と思う。

鉄の柵と木

けれど有機的自律運動をしていないわけじゃない、と思う。
やはり有機的自律運動のはたらきの中にあることに変わりないのではないかな。

硬い鉄はこれ以上変化の起きにくい「硬い星座状態」の落ち着き方している、と言ってみよう。

でももし高熱の火と接すれば粒とつながり線はバラバラと展開していき、ぐにゃっと成る現象が起きる。

「硬い星座状態の鉄」と「木」が閉じ込められて接触している時お互いの間で有機的自律運動はどのように展開していくだろう。
「木」の方は鉄に比べてより様々な「刺激の素」と応答しやすく、鉄よりも粒とつながり線への「展開の可能性の幅が広い」という言い方ができるかもしれない。

展開していくうちに、硬い星座の鉄と、可能性の幅が広い木が閉じ込めらていれば、木の方により変化が見られる。


有機的自律運動は、人間だけに起きているわけではなくて、ありとあらゆるものの「間」で起き続けている。


演劇の即興がなぜあんなに悦びをはらんでくるのか。
それは、有機的自律運動のはたらきを優先しているからだ。

まるでダンスを踊っているよう。
有機的自律運動のはたらきによって現れてくる目の前の現れに、そそのかされるように次の一手が出る。
子どもが興味本位で手を出してしまう瞬間のように、瞬間にそれは出立する。
その一手は、新たな刺激の素となり、新たな粒とつながり線を生み、運動は展開していく。

変化に伴う刺激の素に、新たな粒、つながり線が成る。
同じようでいて、少しズレた着地点に新たな粒が、つながり線が、現れていく。
拾い拾われ、いのち=応答し合っている現象。
それが起き続けていることはほんとうは悦び溢れる体験のはずだ。


「便利」「効率的」「速い」などが目的になると、
容易に有機的自律運動は無視されやすくなるだろう。

有機的自律運動を優先できないでなにか別の目的が優先されているとき、なにか「線」に沿って有機的自律運動が成っていくとき、本来発生してくるはずだった「粒やつながり線」は、
こぼれ落ちている。外れていく。
この、こぼれ落ちた、外れていく、「粒やつながり線」は、消えてなくなるわけではない。
あるのに、なかったことのように透明化している、だけなのではないかな。

例えば演劇の即興では、「目指す目的とかなにかに沿って進行すること」から解放される装置、有機的自律運動が優先される設定、がなされていて、その中では、十全に有機的自律運動がはたらいていて、わたしという個体も展開して居られるのかもしれない。

そして、それは「普段は叶っていない」という前提の元で、「悦び」として、「わたしという個体」の中に現れてくるのかもしれない。


※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。

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