個人の0ポイント 集団の0ポイント
気温差が激しい〜。
こんなときは起きられない〜、
頭がボーっとする〜、
けれども自分と話すための言葉について引き続き説明を試みることはやりたいもんね 起きちゃうもんね。
想像してみる。
誰もが、自分と話すための言葉をもつ。
どんな言葉だろう。
それはきっと、懐中電灯みたいに、足元や自分の姿を照らしてくれる。
その懐中電灯で照らされて見えてきた現実(主観)を、お互いに交わしあえたなら、ワクワクするんじゃないかな。
照らしだされたらきっと、自ら輝き出すんじゃないかな。
お互いがいよいよ見えてくるんじゃないかな。
前回までに身につけるもの(衣類)や、気圧や気温などとのわたしの0ポイントの狭さや、0ポイントの得られにくさを説明してみた。
個人の0ポイントがそれぞれあるように、集団にも、その集団に特徴的な0ポイントがあるんじゃないか。
ひとりひとりの0ポイントが集まる。
会社とか学校とかクラスとか部活とか習い事とか。
そこに集まった人のそれぞれがもつ0ポイントの範囲や種類は、意図せずとも、集団においてある一定の0ポイント幅ができあがっていくんじゃないかな。
それを「集団の輪っか」と呼んでみる。
左の人:集団の輪っかとそれほどズレがない
自分の0ポイントと集団の輪っかがそれほどズレていなければ、都度、調整しつつ馴染んでいけるだろう。ゆえに、自分の0ポイントを大きく意識することなく済んでいる。
真ん中の人:自分の0ポイントは見えていない
自分の0ポイントを把握できていない、かつ集団の輪っかとズレがある人は、無意識にズレを調整しようと奮闘し、結果的に集団の輪っかに沿っていくような行動をしていることになるだろう。
自分の0ポイントからますます遠ざかることになる。
右の人:自分の0ポイントは把握している
自分の0ポイントを把握できる機会がある人は、集団の輪っかと自分との差を意識できるだろう。
注意が必要なのは、上の3つのパターンは、個人の特性に寄るとは限らないということ。
その集団におけるマジョリティ性や、社会の規範しばりや、様々な要因で変化しそう。
だから、誰もが時に左の人であり、時に真ん中の人であり、時に右の人である場面があり得る。
しかしそうはいっても、毎日通っている学校や会社が自分の0ポイントが取れにくい場であるなら、調整のコストは絶えずかかっていることになる。
図でいうところの左の人が多い集団で、自分は真ん中の人であれば、差分の調整に明け暮れ疲弊し「自分がおかしい」「ダメな自分」と、自分を貶めることに陥っても不思議はない。
集団においては誰もが「集団の輪っか」と自分の0ポイントの差の調整を無意識に取らざるを得ないだろう。
ただ、その中に、0ポイントがいつまで経っても折り合いつかない人もいるんではないか。
「0ポイントは、有機的自律運動のはたらきによって環境と応答が叶っている現象」と仮説を立ててここまで説明を試みてきた。
そして「折り合い」は、
「つける」もの、ではなく
「つく」もの、なんじゃないか、と仮説を立てた。
そうだとするなら、わたしが「働くがつづかない」現象も
ここら辺と関係しているのではないか。
衣類や気圧やその他諸々において、わたしの0ポイントの特徴は、どのようであるから集団の輪っかに容易に順応できていかないのか。
また、集団の輪っかに容易に順応できていないとどうなっていくのか。
これらの言葉を使うことで仮説が生まれてくるのではないかな
と、今は思ってる。
でてくるかな、どうかな。
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