【仕事編・映像制作会社④ 人との認知のズレ】 0ポイントと出会う旅
今日も窓がしっとり緑色に透けている。
雨が降っている。
少し翳った窓が心地よい。
落ち着く。
わたしは所属する映像制作会社社長に同行してもらって、テレビ局に辞めたいことを告げに行った。
不思議なことに、辞める時に惜しまれた。
惜しまれているとは不思議なことだ。
当時わたしは放送室に入るたびにビビっていたし、その場に居られる感覚がなくて、失敗しているのか成功しているのか、大丈夫なのか大丈夫じゃないのか、始終不安の中にあった。
ディレクターは常にハイテンションで自分自身も現場も鼓舞しているように見えた。
なので、怒っていなくても怒られているようにわたしの体は萎縮していた。
身体が萎縮していると、刺激の素に過敏になる。
「少しも取りこぼすな」というような指令が体から出ていたりするのだろうか。
体の中で「おい、そっち!」「あ、そこ!」「速く!」「待ってってば!」「そこ!うしろ!」というような、
刺激の素に次々に応答を迫られるように、拾わなきゃ!という、必死さ。
バレーボールのボールをひたすら拾いまくっているような、
そんなやりとりが「わたし」という個体の中で、繰り広げられているような。
辞めるというわたしに対して、報道番組の上長は「みんなあなたみたいな人が入ってくれて、すごく喜んでいた」と言っていた。
辞めてほしくないからの詭弁だったかもしれなかったが、出向させたわたしの所属する制作会社の社長も、同様に残念がっていた。
え、わたしって、現場ではちゃんとやれていたの?
と、キツネにつままれたような感覚がした。
どうやらまんざらお世辞でも辞めてほしくない詭弁でもなく、わたしはタイムキーパーという役割を、現場での役割を、やれていたようだった。
「〇〇さんが来てくれて現場が変わった」
「こんなにちゃんとやってくれる人はなかなかいない」
というようなことを、上長と映像制作会社の社長二人が、歩きながら話していた。
わたしはその後ろを歩きながら、
「ごめんなさい」「でももう無理です」「ごめんなさい」「期待を裏切ってごめんなさい」という気持ちでいっぱいになっていた。
もう、許してほしかった。
解放してください。
なにが起きていたのだろうか。
「粒と星座」の視点から見てみよう。
・初めての知らない仕事、タイムキーパーの担当
・わたしの仕事タイムキーパーを直接教えられる先輩はいない
・つまり、わからない点を聞ける人がいない
・周囲は同じ会社の同僚ではなく出向先の会社
・その会社自体が新しい組織
・早朝4時から始まる
・失敗の許されない生放送番組
・担当番組が終われば自分の社に戻る
・時事刻々変化する目の前の時間を秒単位で修正、現場に周知する必要
・自分が担当する番組のタイムキーパーは自分しかいない
・自分がダメになってはダメ
といった環境、現場にあり、
「集団の輪っか」は、緩やかに出来上がったものではなく、現場に追われる形で急速に立ち上がっていた可能性。
誰もが「正解」がわからず手探りで、誰もが「失敗」の恐怖に迫られていて、誰もが責任が自分にあることを感じている。
そのようにわたしには感じられていた。
実際はどうだったかはわからない。
他の人とは気持ちをシェアしたことがなかった。
「共同作業」であるはずが、
「個人」の中で完結することを求められているような構図になっていた。
個人がそれぞれの役割をキチンとこなせば本番は失敗なく滞りなく終えられる。
わたしはそのように努めていた。
そして、一歩も動けないくらいに、「もうムリ」になっていた。
わたしを惜しんでくれた上長には、わたしのその「努めていた」状態が見えていた。
実際に、ずいぶん、やれていたんだろうと思う。
わたしの身体の実際はどうだったか。
常にギリギリの針の先端にいた。
拾えるだけ拾っていた。
刺激の素が満載で、タイムキーパーの担当がわたし一人なのであれば、他の人はそれぞれに担当を担っているから、わたしはわたしの担当をしなければ現場は滞るので。
拾えるだけ拾っていた。
拾ったら目の前のタイムスケジュールを修正していく。
時間の面からみたら、ディレクターでさえわたしは上回って全体をコントロールしていかねばならない。
こわい。
頭が常にピキーーーーンて感じ。
心臓の鼓動がずっと速い。
緊急事態だ。
緊急事態を、毎朝やっていた。
この認知の差からきていると思われる。
報道番組の上長の、わたしに対する見解と、
わたしの身体との落差。
上長の見解はたぶん「現場に対応できている個人」
わたしの実際は「『集団の輪っか』に沿っていこうとして死にそうになっている身体」
これは、全然違うものを比べているのであり、差が出るどころか、まるで違う方を見ちゃっているのだ。
当時は、わたしはこんなに苦しくて瀕死なのに、「よくやってくれている」みたいになぜ上長がいうのか、不思議だった。
でも、そういうことは、起きるのだ。
別のものについて見えているのだから。
上長は「現場」が見えていた。
現場での「個人」が見えていた。
わたしは「自分の身体に起きていること」が感じられていた。
現場が回るように沿っている、「個人の0ポイントが見過ごされたままの有機的自律運動」に息ができなくなっている、そういう自分の「身体」が感じられていた。
過労死という言葉が頻繁に取りあげられる時代があった。
夫を過労死で亡くしたという人と一緒に働いていたこともわたしはある。
たぶん、過労死に至る人というのは、自分の0ポイントより集団の輪っかが優先される中に居たのだろう。
集団の輪っかが強力で、圧倒的で、正しくて、
個人の0ポイントは尊重されない、尊重することに気づくこともない、そういう現場はいくらもあるだろう。
わたしはたまたま、「もうムリ」ってなって、たまたま精神科に行って、たまたま「やめてもいいんじゃないですか」とだけ先生が言って、たまたま泣けて、たまたま「辞める」って言えた。
そういう「たまたま」がわたしにはあった、という小さな違いに過ぎないのでは。
「辞めグセ」がつく。
みたいな言い方もあると思う。
でも、今のわたしなら、「そんなの、知らないだけで勝手な言い分だ」って、ハッキリ言う。
あの身体に入ってみて。
あの環境の、あの時の集団の輪っかの、あの身体に。
むしろ「辞める」って言えて、わたしは生き延びてこられた、と思える。
でもこれは、「粒と星座」という言葉が自分にやってきたから見えてきたことだから。
「粒と星座」がなかったら、わたしがわたしと話すための言葉がなかったら、わたしは今も「辞める」自分を許せていなかった。
自分という「個体」の、応答できている範囲、「0ポイント」は、個体差がある。
「環境」「集団の輪っか」「個人の0ポイント」
これらが混ざり合って有機的自律運動がはたらいていて、「個人」にどのような現象が起きるかは、個体差が出てくるのだ。
「粒と星座」、わたしがわたしと話すための言葉がやってくるのはまだまだ先。
集団の輪っか優先の、故に自分の0ポイントはないがしろの経験が続いていきます。
転職・「0ポイントと出会う旅」は、まだ始まったばかりでした。
全部、書くのかなあ。
途中で書くのやめちゃうのかな。
どうだろう。
※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。
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