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【仕事編・星座に至れなかった粒とつながり線(亡霊)とのつきあい方②】 0ポイントと出会う旅

なんだか落ち着けない……、と感じていたら
目の端っこにモニターがあって、映し出されている映像が動いていたからだった。
目に入らないように向きを変えました。
途端に落ち着いた。

ささいに思えるこういうひとつひとつが、重要だったりたりしますよね、わたしの身体。
刺激の素に応答しやすい。のかも。


「便利」「効率的」「速い」などが目的になると、
容易に有機的自律運動は無視されやすくなるだろう。
有機的自律運動を優先できないでなにか別の目的が優先されているとき、なにか「線」に沿って有機的自律運動が成っていくとき、本来発生してくるはずだった「粒やつながり線」は、
こぼれ落ちている。外れていく。
この、こぼれ落ちた、外れていく、「粒やつながり線」は、消えてなくなるわけではない。
あるのに、なかったことのように透明化している、だけなのではないかな。

について、前回は、ひとつのわたしの現れを記述してみた。
・集団の輪っかから外れる

もうひとつ、わたしが意識せずにしていたこと
「高校演劇部のときの状態」の再現、有機的自律運動に任せた自分の0ポイントを優先すること。

最初の就労、臨床検査員をしていて3年くらい経った頃、苦しくなった。
はっきりした理由もわからず、共感されもしないその感覚に、わたしは困っていた。

(不思議よね。
有機的自律運動って、そこかしこあらゆるものの間で起きているのに、
それを感じ取る「感受性」みたいな装置は、個体、個人の内側なんだから。
共感されにくいったらないじゃない。
それって、どういう構造なんだろうな… 
っていう考えはまた別にするとして、)

そのとき「演劇やりたい」って、思った。
たぶん、高校演劇部での体験がわたしを支えてくれていたから、あの状態の再現を欲したのだと思われる。

以前にも高校演劇部での体験を書いた記事があるから重複するけど、
・先輩後輩はハッキリあるけど誰か特定の人が権威的にならない構造だった
・いろんなトレーニングがあって、得意不得意は人によってマチマチだった
・「バラバラに動いてパッと止まった時に目の前にいる人に罵詈雑言を浴びせるワーク」があって、先輩も後輩も関係ない、なにかができるできないに関係ない、時間があった
・記憶力のいい人がいて、前はこうだったよ、とか覚えていることを教えてくれた
・部活が終わっても喫茶店に行ったり、バレーボールしたり、休みの日にサイクリングしたり、一緒にいる時間がたのしかった
・誰と誰が仲良い、とかあったけど、割と個人な人も多かった
・わたしと同じくらい、わたし以上に、起きていることにふつうに応答する人が多くいた

集団で、なにか、「沿っていく」みたいな「線」があるとしたら
高校演劇部の経験は、「いい芝居をする」という「願い」みたいな「希望」みたいなだった。
なぜそれがわかるかというと、地元の劇団の芝居がみんな好きで、あんな芝居をしたい、と心から思っていることが共有されていたから。
その劇団には、自分達の高校の先輩たちもいて、遠いテレビや映画の世界じゃない。
目の前にいるこの人たちがやっている、あれを、わたしたちも実現したい、そういう身近は、そしてたくましい、希望だった気がする。

あれがあるから、わたしたちは一緒にいられたし、
それぞれがそれぞれであって構わなかった。

誰かが泣いていたり、家で何かあったり、人に共有できない事情を抱えていたり、あったけど
一緒にいられる時間がひとりひとりを支えていたような気がする。

これらはなにが起きていたか、と考えてみると
・沿わなきゃならない「集団の輪っか」がゆるかった
・故に、それぞれの間で有機的自律運動のはたらきに自由度があった
・故に、粒とつながり線の行方の着地点はなにかに矯正されていなかった
・「希望」があってそこに向かえた
つまり、有機的自律運動のはたらくままに任せていてもなんとかなっていた


高校時代のそのままを再現することは無理だったけど、
それは、もう高校生じゃないから、それぞれに仕事を持っていて、そこではやっぱり「沿っていく」有機的自律運動をよしとしていて、
その余力で、有機的自律運動をさらにやるってことはなかなかに大変だった。

どっちが本業よ
みたいな感じもあったし、
「沿っていく」有機的自律運動の方が、優先されて当たり前みたいな感じがあったし、それに慣れていた。
お金にもならないのに、っていうのが、ついてまわる。

お金にもならないなのに、わざわざ、演劇をやる意味って、って。
わたしたちが憧れていた先輩たちの劇団だって、そうだったと聞いている。
あんなに、いい芝居している人たちだって、そうなんだ、って知ると、もう、なんか、どうしたらいいんだろう、ってなるよね。

そういうこと、たくさん、したらいいのに、って、今なら思う。
お金にもならないのに、って、
それはどこに立った時に出てくる表現かと言えば、「資本主義システム」という、大きな集団の輪っかにスッポリ入っている中から出ているはずだ。

その中にいるから、生活できているんだ、と言われれば確かにそうだ。
わたしもその中に居る。

だけど、その「資本主義システム」みたいな「集団の輪っか」が強力すぎて、他は否定されるなら、それはなんか、どうでしょう、わたしは苦しくなる。


どっちかだけ、じゃなくて、よくないか。


行ったり来たりとか、たまに一方だけとか、ちょいちょいはみ出すとか、
やりようは本当はあるんじゃないか。

いろいろ、あったらいいんじゃないか。

わたしは、なにかひとつとか、どっちかがいい、と言い切れない。
なぜなら「集団の輪っか」は、どんな集団にも自然と発生するし、「集団の輪っか」がダメとは言えない気がしている。
集団の輪っかから外れて、個人でやっているつもりでも、大きな集団の輪っかから、例えば国とか地球とかから、外れて生きていけることなんてない。

だったら、どうする。

ひとつの、強力な、「集団の輪っか」に偏らないこと。
が、ポイントになるんじゃないかな。

つい、便利な、効率のいい、速い、システムにわたしたちは偏りがちになるけれど。

「便利」「効率的」「速い」などが目的になると、
容易に有機的自律運動は無視されやすくなるだろう。
有機的自律運動を優先できないでなにか別の目的が優先されているとき、なにか「線」に沿って有機的自律運動が成っていくとき、本来発生してくるはずだった「粒やつながり線」は、
こぼれ落ちている。外れていく。
この、こぼれ落ちた、外れていく、「粒やつながり線」は、消えてなくなるわけではない。
あるのに、なかったことのように透明化している、だけなのではないかな。

もういちど、今回の最初に掲げたことを再度記述してみた。

なにか線に沿った有機的自律運動にあっても、こぼれ落ちていく、外れていく、粒やつながり線の行方を、
なかったことにしない。

亡霊さん、こんにちは。


※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。

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