【仕事編・パチンコ屋さん② 記憶は好みで残るわけじゃない】 0ポイントと出会う旅
台風が去って今日は光がキレイに射している。
台風の前にわたしは体調が崩れるのだが、今回は長かった。
起きれられない、得体が知れないどーんとした体、という状態が続いた。
昨日くらいから、ハイになって、ああ、台風が去ったのかな、って感じた。
重い漬物石が急に外れて、中の空気がふわーっとなったみたいな、そんなハイ。
この状態で「なんでもできる気がする」のは勘違いで、どうせ落ち着いてくるのである。平常運転に体が戻るまでは、この、上昇と降下を、やり過ごすしかない。くさっている場合ではないのだ、どうせ過ぎるのだ、どんと来いと構える。
これを、「あきらめ」と呼んでもいい。
もっと正確にいうなら、「正気」と呼べる。
体の乱気流は天気の乱気流。
そこに慌てふためくのは正気じゃない。
前回は、再上京してパチンコ屋さんで働き始めたところを書いた。
ホール主任のことを記述した。細かいところまで短い動きで記憶している。
お客さんで覚えている人もある。当時、意識するほど気にしていたわけじゃないのに覚えているその人は、もしかしたら、それ以前に出会っていた他の誰かと、似ていたからかもしれない。
長髪気味の髪の前髪の顔にかかる感じ。スエットパンツの素材感。タバコのくわえ方。台に向かった姿勢の体の傾き方。顔の輪郭線。
そういう、細かいことが集まったふわっとなんとなくな感じで「思い出し」がちょくちょく起きる。
だからふと、立ち止まって、「思い出し」に捕まることがある。
自分でもハッキリ思い出せなくて感触だけ「思い出し」が発生するから、ほら、誰だっけあの俳優の名前、みたいな、思い出せないけど喉元まで出ている、みたいな状態になる。
自分の好みで記憶が残るわけじゃない。
どういう選別で記憶は記憶になっているのか不思議だ。
しかし、理由はわからなくても、そういう記憶でわたしはできているし、そういう記憶の「思い出し」によって、日々のわたしは動いたり思ったりしたりしているのだから、なんだか、自分の記憶の石の上を踏んで人生ができているような気さえする。
まだ台風の後遺症でポヤポヤしているのかもしれない。
とりとめない感じのまま終わる。
※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。
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