【仕事編・楽器屋さん② 立ち行かなくなること=0ポイントのまま生きられる道標】 0ポイントと出会う旅
この人はこの人のまま、この人の人生をやっているんだなあ、って、感動した。
と前回、あるシーンを記述した。
そういう、ことだ、って改めて思う。
なにかになろうとしている時、
集団の輪っかに沿っていこうと指向している時、
自分をダメだと感じている時、
方法が見つからない時、
振り返ればわたしは助けられてきたのかもしれない。
自分の身体に。
つまり、この世界の摂理に。
楽器屋さんでバイトする前はどのような状況だったかというと、
立ち行かなくなっていた。
このような状況だった。
実家に帰ってきて、知っている土地で、一人暮らしじゃない、演劇はやらずに、新しい職場だけにコストをさけた。
「知らないこと」は、小さく小さくなった。
刺激の素は同じように粒になりやすく、つながり線へと連続しやすいわたしの特徴に変わりはない。
けれど、量が違った。
圧倒的に減っていたし、そうすると「慣れ」も発生してくる。
「慣れ」は、わたしにとっては大事な要素で、「馴染めない」特徴と裏表だ。
馴染んでくる。
刺激の素に接して、粒になり、つながり線になって星座の形成を見る。
星座に成れれば、つながり線の運動が終われずいつまでもバタバタすることはない。
鎮まってくるのだ。おさまってくる。そのとき、「慣れ」というような、自動操縦に身体は変化している。
立ち行かない現状を一旦すべてそこに、東京に置き去りにして、
「星座に成れない至れない」ゆえに運動し続けている刺激の素→粒→つながり線の運動を、止めた。
これは理解してできていたわけじゃない。
立ち行かなくなったのだ。
一歩もすすめない感じ。
体はぜんぶ、しっているのだ。
わたしは立ち行かなくなって動きようのなくなった自分に、抗えなくなっただけだった。
そして、実家に戻って、楽器屋さんで働き始めて、
刺激の素→粒→つながり線→星座
の有機的自律運動のはたらきが、スムーズに流れ始めた。
思えば、これまでの人生このパターンを、繰り返している。
その結果が「転職30回」だった。
そうか、それだけのことだったんだ。
わたしは挑戦し、自分の0ポイントの範囲を超えるような刺激の素の下に自分を置いた。
そして立ち行かなくなる。当たり前に。
そして、いったん、刺激の素から離れるしかない自分の身体に抗えない。
とっても、素直。
わたしの自意識や思考は素直じゃないかもしれないが、
わたしの身体は、素直だった。
身体は、ひょっとしたら、個人の所有物なんかではなくて
この世界の一部でしかないのかもしれない。
自分の身体が自分のものだなんて思っているのは間違っているのかもしれない。
書いてみると、しっくりくる。
だとしたら、どうする?
※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。
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