「運命は自らの手で変えられる」それを伝えることこそ、我が使命 | 方位学鑑定家 柴山壽子さん
「時運と動く先の方位を見極めれば、誰でも人生の上昇気流に乗ることができます。そのことを教えるのが私の使命です」
方位学鑑定家 柴山壽子(しばやまひさこ)さんは自信に満ちながらも落ち着いた声でそう語る。
方位学の鑑定とは、その人が動いた時期と方位を徹底的に調べ、運・不運の原因を突き止め、そこからその人の最良の開運の道を探り、具体的にかつ的確に方向性をさし示していく。
そんな柴山さんの元には、この先をどう生きたらいいのか、真剣に悩みを抱えながら訪れてくる人たちが絶えない。
柴山さんははっきりとこう言う。
「私はこの方位鑑定を“命をかけて”やっています」
それは、自分の鑑定が一歩間違えれば、相手を失意のどん底にだって落としかねないからだ。誤った鑑定をしてしまったら、相手の人生を救うどころか狂わせてしまう。
人生を賭けてやってくる相談者の思いに、柴山さんは自らも命をかけてその思いに応える。
だから、相談者が絶えない。
初めて訪れた人は、その後の人生選択に悩むと、必ずといっていいほど何度でも訪れてくるという。何十年と訪れている方も数えきれないほどいる。
「命をかけてやっている」
表現としてはシンプルだが、この言葉の意味はとてつもなく重い。一方で軽々しく口にしたら、かえって疑問が湧いてしまう言葉でもある。ところが、柴山さんが発する言葉の響きには、そんな疑念が湧く隙間はない。一切ためらいがない響きには、むしろ大船に乗った頼もしさを感じる。
「自分の人生を実験台に探究してきたから、“覚悟”が違います」
柴山さんは「一生の中でこれほどまで激しい起伏が起こるものなのか」という波乱の半生を経験し、その半生を方位学で検証、さらに方位や気学の影響を自らの身体を使って“実験”してきた。鑑定の言葉ひとつひとつに込められた“自信”の質量が違う。
「方位学は他の占いと違うところがあります。それは、方位を取ることで、自分の運命を自ら変えられるという点です」
“気学”を源流とした方位学だからこそ、運気を変えていくことができる。
そのための方法は、自分がまず動くこと。
「ただし、これは無闇やたらに動いたらだめです。自分の星まわり、つまりエネルギーがきちんとまわる“方位”を意識して動かないと意味がありません」
この“動き”を柴山さんは自らの身体を持って実践してきた。方位学をただ机上で学んだだけではない。「命をかけて」とは、まさにこの部分だ。
波乱の半生から、「運命とは本当に変えられるのか」を考え始め、そして方位学を極めて「運命の変え方」を伝えていくことを使命としている。
「方位学という占法(せんぽう)は、人生の変えていく“戦法”でもある」とも言い切る。
そんな柴山さんは、自身で築き上げてきた運命を変える“占法(戦法)”を、上昇気流を求める人たちに特化し、目指している先に確実に到達できるよう導いていく決意を新たにしている。
人の運命は変えられるのか?
「自分の人生を実験台として研究してきた」
柴山さんのそれまでの人生を辿(たど)ると、その意味がよくわかる。
裕福な家庭の娘という立場から一転して貧困を極めたどん底の生活、家族や伴侶との死別、子育てと生活確保のために孤軍奮闘……、これでもかといわんばかりの起伏の激しい体験を繰り返してきた。その激動の中で方位学と出会い、方位学を使って自らの人生の道を切り拓いて今に至っている。
柴山さんは茨城県土浦市で生まれた。
父親が事業家であったことから、「物心がついた時には、いつもレースの帽子や綺麗なワンピースを着ていた」という裕福な家庭環境だった。
しかし、この生活が一変する。
まず、住む場所が大豪邸から今にも崩れそうな古い家に変わる。その家は、空き家となっていた母親の実家だった。
「母の実家というのが、とにかく古くてトイレが家の外にあるような家でしてね。それにショックを受けたことを今でも覚えています」
生活スタイルが変わって以来、父も母も働きずくめとなり、自分も家の中であれこれを手伝いに奔走する日々となった。
「子どもの時には何が起こったのかまったくわからなかったけど、要は父親の会社が倒産してしまったわけですよ」
この暮らしぶりの落差は、小さな柴山さんの心に強烈な印象を焼き残した。
「中学生、高校生になるにつれて心理学や占いに傾倒していったのですけど、そのきっかけはこの体験にあるのではないかと思います。人の人生って、運命って、なんでこんなに変わるの、って子どもながらに感じた記憶があります」
人生の流れ、運命とは一体なんなのか。
運命の流れは変えられないものなのか。
当時では、明確な“言語化”はできなかったもしれないが、感覚的にその命題が柴山さんの奥底深くに根づいていた
「高校生になると、多湖輝(たごあきら)先生の心理学や読心術の本を片時も離さずに読んでいました。“人生はなんなのか”“運命とは変えられないのか”といったことを常に考えていて、そこから占いなどを独学で勉強し始めていきました」
トランプ占い、人相学、占星術、姓名判断……とあらゆるジャンルを自分で学んでいく。しかし、この時点での学びには、“運命を変えることができる”方位学はまだ含まれていない。
「この時はまだ、“占い好きの女子高生”という感じでした」と当時を振り返る。
そして、この後の柴山さんの半生は、まさにこの命題に対する試練ではないか、と思えるほど波乱に満ちたものとなる。
まるで波乱しかない半生
「とにかく母親がすごかったんですよ」
実の母について、そう語る。
なぜなら、困窮した暮らしを建て直したのが母親だったからだ。
「父も働きましたけど、特に母の商才がすごかったんですよ。その後、食堂を始めたらどんどん商売繁盛して、古い実家を建て直せるぐらいになりました」
店の場所は、筑波でも辺鄙(へんぴ)な場所だった。それに関わらず店の評判はよく客足は絶えなかったという。そのおかげで、実家を建て直すこともできるようになった。当時は住宅ローンなどまだなく、家を立て直すにしてもそれなりに財力が必要な時代だった。それだけでも母親の商才がいかにすごかったのかがうかがえる。
昭和49年には、店舗と住居が一体となる間取りに建て直した。
ところが実家を建て直してからというもの、これまでの状況が変わり始めた。
あれだけ繁盛したお店の客足が、日に日に減っていった。その原因ははっきりわからない。何をしても状況が変わることはなく、やがて経営難に陥り親兄弟の不仲にまで発展する。
そして、建て直しから7年後、最悪の事態が訪れる。
母親が自動車事故で命を落としてしまったのだ。
しかも、友人が運転する車に同乗しての事故であり、亡くなったのは柴山さんの母親だけで、他の同乗者は怪我をしたものの命に別状はなかった。
さらに悪いことは続き、この事故のわずか1ヶ月後に、今度は柴山さんの弟が事故に遭い左目を失明してしまう。
「かなり後になってわかったことですけど、実は建て替えた家がとんでもない “大凶”の方位と家相になっていたんですよ」
柴山さんは当時を振り返る。
しかし、当時はそんな家相の知識などまったくなく、ただ起こっていく流れに身を任せていくしかなかった。
占いなど誰が信じるものか!
「人の運命は変えられるのか?」
その命題を胸に、高校生からあらゆる占いの本を読み漁り、独学で造詣(ぞうけい)を深めてきた。しかし、その占いも何もかも信じられなくなってしまった時期があった。
それは、愛する夫と死別したときだった。
母親の食堂が順調に広がっていたころ、柴山さんは資産家の家に育った青年と出会い、やがて、同棲を経て結婚する。
お互いに相思相愛にもかかわらず、彼の父母からはあまりいい感じには受け止められていなかったという。
「実家が食堂といういわば水商売系で、私が年上だったこともあったから、財産目当てのように思われていた節があったんです」
と当時を振り返る。
「夫との関係は良好だったので、夫の両親がなんと言おうとあまり気にしていませんでした。ただ、一つだけどうしても気になっていたことがありました」
それは、夫の健康だった。
「夫は、18歳の時に『クッシング症候群』という10万人に1人という難病にかかり、大手術したことがあったんです」
そして、この不安は長女を出産した3ヶ月後に現実となる。
夫の肝臓に異変が見つかったのだ。
「『手術した時の輸血が原因で肝臓の病気が発症した”』と医者から言われました。おそらく今でいう輸血感染によるC型肝炎といった類ではないかなと思います」
しかし、当時はそこまで原因はわからない。
資産家の子息でもあったことから、夫は都内にある有名な病院で幾度も診察を受けた。しかし、病状は一向に回復することなく、肝硬変を発症しやがては肝臓がんへと進行していった。
なんとか夫の命を助けたい一心で、あらゆる占いを調べ、さらには宗教にまで入信する。
「今から思えば、我ながらなんと浅はかだったと感じます。とにかく夫の命をなんとか助けたくて、その方法があればなんでもやりました。本当にもう無我夢中でした」
占いで、改名することがよいとされれば名を変え、「これをすれば病状はよくなる」ということがあれば大金をはたいてでもやった。それこそ、宗教にもすがった。
高額な費用を払って著名な占い師のもとに訪れたこともあった。しかし、そこで待ち受けていたのは、高圧的に「あんたの行いが悪いだけ」という冒涜的な言葉と罵詈雑言だけだった。
「こんな仕打ちを受けても夫の状態は変わらない。もう“占いなんて信じるか!”と思いましたね。できることはもうただただ“祈る”だけでした」
しかし、柴山さんの祈りも叶わず、夫は37歳という若さでこの世を去る。
占い、宗教、自分が信じてきたことは本当になんだったのか。
結局、何をやっても運命は変わらないし、ましてや奇跡も起きなかった。
「人の運命なんて所詮変えることはできないのだ、とこのときばかりはつくづくそう思いました」
そして、固く誓う。
「占いも宗教も、もう何も信じない」
自分が信じてきたもので愛する夫を救うことができなかったことに、ただ虚しさだけが残った。
どん底からの再スタートで
夫を亡くし失意のなか、柴山さんにさらに追い討ちをかけるようなことが起こる。
夫に関わる財産が、柴山さんには分与されなかったのだ。
「私の看病の仕方が悪かったとされて、夫が亡くなったのに喪主にもされず、夫の父母から当家にはもう関わるなと一筆書かされたほどです」
柴山さんに残ったのは、当時8歳と4歳の娘と、当時暮らしていた母親の実家、それと夫が残したわずかながらのゴルフ会員権だった。
頼れる身内はもう誰もいない。
手に職もない。
二人の娘を抱え、ただ途方に暮れるしかなかった。
頭の中は真っ白となり、これからの生き方が思いつかない。そんな失意のなか、柴山さんは子どもたちを連れて北海道支笏湖へと向かう。そこは、かつて家族で一緒に行った、楽しい思い出の地でもあった。
しかし、今回は目的が違った。
生きていく意味も希望を見失い、柴山さんは人生そのものを終わらせようと向かった。
ところが、その行く手を阻んだ人がいた。
支笏湖へと向かうために乗ったタクシーの運転手さんだった。
「私の様子を見て気づいたんでしょうね、運転手さんが『母親のあんたが死ぬのは勝手だけど、子どもの命を奪う権利はあんたにはないよ』って言って、支笏湖に向かわずに途中で千歳空港に引き返したんです」
引き返すタクシーの中で、柴山さんは散々に泣いた。
「でもね、ここまできたら今度は気持ちが開き直ってきたんです。“だったら是が非でも子どもたちのためにも絶対に生き抜いてやる”って、そんな気持ちに変わりました」
なんとか仕事をつくり出して、子どもだけでも絶対にしっかり育てよう。
そう決心して、動き出したときだった。
ある企業から柴山さんの元に連絡があった。
「要件は、うちの母屋の一部を借りたいという問い合わせだったんです」
柴山さんが娘さんと住んでいたのは、5年前に事故で亡くなったことで空き家となっていた母親の実家だった。昭和49年に食堂兼住居として建て直した家には、小部屋がいくつもあった。
時はバブル景気が上がり出すタイミング、かつて田舎だった筑波の地にもさまざまな企業が工場建設などで進出してきた。問い合わせしてきた企業も、そうした企業の一つだった。
断る理由はもちろんない。
話は進み、実家も改築することになった。
食堂として使っていた厨房にお風呂を入れ、寮として使いやすくした。これらの費用は企業側が持ってくれた。企業側としても、寮を新たに建設するより費用も手間もはるかに効率が良かった。まさに渡りに船の物件でもあった。
「これで親子3人なんとか生活できる、と本当にホッとしました」
柴山さんに吹いた追い風は、それだけではなかった。
土地やら権利ものなど、あらゆる資産の価値が爆上がりしていった、いわゆるバブル景気の上昇気流だ。夫の唯一の遺産だったゴルフ会員権の価値も、この気流に乗って跳ね上がった。柴山さんは、価値が上がったところでゴルフ会員権を売却した資金で、現在のつくば市に事務所を借り法人を設立する。
「とにかく自分で事業をしよう、と思ってまず会社をつくりました」
結婚相談所、宝石商と、やれることをとにかくやってみた。が、なかなか安定しない。最終的には、これからの時代はエステだと閃き、エステの技術を習得後、土浦市にサロンを開業する。
失意のどん底から少しずつ、少しずつ這い上がってきた。しかし、安定という状態はまだ程遠かった。
方位学との出会い、そして神様の“試し事”
柴山さんが方位学に出会ったのは、苦しいながらも自分で事業を立ち上げているこの時期だった。
「自分で仕事をやりだしバタバタとしている状況に、気持ちが少しでも紛れればという思いで友人が『方位学を学んでみたら』と勧めてくれたんです」
「二度と占いなんてやらない!」と、決意を固めていた柴山さんだったが、友人がわざわざ自分のことを思って勧めてくれたこともあり、ひとまず勉強はしてみようかという気持ちで方位学を学び始めた。
「人の運命とは変えることができるのか」という深い命題のもと、占いに興味を持ち独学で学んできただけあって、方位学そのものには抵抗はなかった。それどころか、学び始めて方位学がこれまでの占いと大きく違うことに気がつく。
起源を古代中国までさかのぼり、4000年近くの間に整えられ体系化された方位学は、まさに立派な“学問”だと感じた。
消極的だった柴山さんの気持ちが変わりはじめる。
「もっと深く勉強してみよう」
こうして方位学を学び進めていったあるとき、方位学で有名な先生から、次のような言葉を投げかけられていた。
「あなたは方位学を鑑定する力量が十分にあるのに、なぜそれをしない」
「そう言われても、このときはまったくピンと来ませんでした。まだ占いに対する不信感もくすぶっていましたから。ただ、方位学のその奥の深さに対する興味から勉強は続けていこうという気持ちになっていました」
同時に、事業のほうは安定どころかますます厳しさを増していた。
エステサロン事業は、資金をしっかりと確保せず見切りスタートしたことが響き、経営はいつも自転車操業だった。設備のリース代、従業員の給与など、毎月の支払いは100万円を超えた。
そんな時に今度は不幸が重なる。
柴山さん自身が立て続けに4度も交通事故に遭い、さらに卵巣に腫瘍があることまで発覚する。
柴山さん自身も、「この時期がとにかく一番辛かった」と語る。
そんな状態のなかで、柴山さん体に不思議な現象が起こる。
新たな使命への導き
「本当に何をどうしていいかまったくわからなかった」
一番辛かったこの時期を、そう振り返る。
事業は自転車操業、個人的には事故に遭った上に病気が発覚。何をどうしたらいいのやら、もう皆目見当もつかなかったという。
完全に行き詰まった……と思ったとき、あることが柴山さんの頭をよぎった。
それは、これまで学んできた”方位学”のことだった。
「そういえば、方位学がある」
とはいっても、方位学はいわば教養の一つとしての位置付けだった。しかし、今となってはこの方位学こそが、残された最後の一つの手段だと直感する。
「もう最後の賭けだ、と思って方位学を使って自分を徹底的に鑑定しました」
さらに、近くの神社へも足を運び、病気平癒の祈願をし、これまで病院で受けてきた検査の結果を待った。
柴山さんの身に不思議なことが起こったのは、この後しばらくしてからだった。
CT、MRIといった病院検査の結果では、卵巣にあった腫瘍がなんと消えてなくなっていたのだ。
「レントゲンで検査しても、どこにも腫瘍が発見されなかったんですよ」
あまりにも信じられなくて「間違いではないのか」と何度も医師に聞いたほどだった。しかし、腫瘍マーカーでもその痕跡が見当たらず、腫瘍が消えたのは「間違いはない」という診断となった。
にわかに信じがたい出来事だった。
「こんなことってあるのか、って思いました」
神社の祈祷が効いたのか?
でも、それはわからない。
いずれにしても。この不思議な現象のことをお礼もかねて祈祷した神社に報告をした。そのとき、宮司から柴山さんのこれからあり方を指し示すような言葉が返ってきた。
「あなたは人を助けていかないと、また同じようなことを繰り返しますよ」
人を助けるって、どうやって??
むしろ、私が助けて欲しいぐらいです……。
とっさに浮かんだこの言葉をそのまま宮司に伝えたら、再び言葉が返ってきた。
「あなたが学んでいる方位学で、無料鑑定したらどうですか」
思ってもみない言葉だった。
「ひょっとしたら、“私は神様に試されているかもしれない”って思いましたよ」
神様は、越えられない試練は与えない。
だったら、方位学の鑑定をすることが自分の使命かもしれない。
このときばかりは、素直にそう思えた。
宮司のこの言葉を受け、柴山さんはエステサロンと並行して方位学の無料鑑定を始めていく。
鑑定という使命に“命を賭ける”
方位学の無料鑑定を始めると、たちまち街中に広がり、ひっきりなしに人が訪れてくるようになった。やがて、柴山さんが出勤する前から人が並び出すほどとなる。
「無料とはいえ、人のことを見る上ではプロだから」と、方位学や関係するあらゆる書物を読み、学びを絶やすことはなかった。そんな中で、自らのこれまでのことも方位学で鑑定してみた。
方位学に照らして半生を振り返ったとき、柴山さんは愕然とした。
「これまで取ってきた自分の行動が、本当にすべて良くない方角に動いていたことがわかったんですよ」
例えば、柴山さんは結婚してから8回ほど引っ越したことがある。これは引っ越しが好きだったからとか、意図があってのものではない。いずれも引っ越し先でトラブルに見舞われたため引っ越しを余儀なくされていた、というのが実態だった。
これを方位学で鑑定すると、どの引っ越しも、タイミングや方角がいずれもよくなかった。だから、引っ越し先で落ち着かない出来事が起こっていた。
昭和49年に建て替えた母親の実家の家相も凶相であることを、このとき初めてわかった。
これまでの自らの行動を実際に方位学鑑定してみると、ほとんどのことが当てはまっていく。
「方位学という学問は信頼に値するものであり、その影響は間違いなく大きい」と確信するようになった瞬間でもあった。
こうして、柴山さん自身の体を使った本格的な研究が始まっていく。
なぜ、自らの体を使うかといえば、「プロとして鑑定するのであれば、自ら実践し実証したことしか語れない」と思うからだ。
我が身を使って学び深めながら、方位学鑑定を本格的に事業として始める。
最初に実践したのは、新規事務所の開業場所探しだった。
当時の時運と吉方位を調べ、新たな事務所を設ける場所を探した。場所は仙台だった。立ち上がり当初は苦労したものの、やがて安定し仙台の事務所は来訪者が右肩上がりとなった。
また逆に、あえて凶方位に自分の身を動かすこともした。
つまり、凶方位の影響としてどのようなことが起こるのか、その方角へあえて自ら足を運ぶ実験をも繰り返した。
「凶方位といっても、どんなことが起こるかわからないでしょ。だから、自分がまずやってみる。そこまでしないと、人に教えることなんてできない」
この実験で、大金を失ったり、健康を損ねたりと柴山さんによってよからぬことが実際に起こった。
「娘たちから『もういい加減にして!』と叱られるぐらい自分を実験台にして方位学の真髄を探究してきましたね」
と笑う柴山さん。
「人に鑑定するなら、まず我が身で試してこそ」
自分のもとに訪れてくる人に対して真摯に向き合うための“実践”でもあった。曖昧な結論は出さない。だから、柴山さんは、他の占いでは見られない「鑑定書」までしっかりと渡す。
それは、まさに鑑定という自分の使命に“命を賭けている証“でもある。
訪れる人たちの期待に必ず応える
人と同じ数だけ、悩みもまさに千差万別。
打ち手に行き詰まり、頭を抱えながら柴山さんの元に訪れる人は絶えない。
個人的な性格、家族の問題、将来の不安、結婚、病気、仕事、転職、会社経営……。
個人から大手企業の経営者まで、ありとあらゆる悩み、混沌とした現状から脱却したい、自分の運命を変えたいという思いが持ち込まれてくる。
これを丁寧に一人ずつ鑑定していく。
これまでの行動を方位学に照らし合わせ、現状に至った原因をまず見極めるところから始まり、そして、その人に見合った具体的な実践方法を伝える。
「現状を悪いと感じているなら、その原因となることが必ずある。それが過去に取った方位、つまり“動き方”を調べればその原因がわかってきます。原因がわかり、これまでの流れがわかれば、いつどのような方位に動けばいいのかがわかってきます」
自分のもとにやってくる人たちの気持ちは、痛いほどわかる。
かつての自分もそうだった。
夫の病気を治すために、「なんとかならないか」と必死に駆け回った。そんな気持ちでいる人たちに対して、いい加減な鑑定などできるわけがない。その強い思いが、自らの身や家族を“実験”する信条につながっている。
柴山さんの鑑定を信じ、「祐気取り」などのアドバイスを素直に行動したことで、自らの状況を好転させた人たちは数えきれない。
「祐気取り」とは、その人にとってよい方向に、よい時期に動き、その土地の「気」(エネルギー)を吸収することで開運していく方法だ。
● 職場で冷遇されていたが、転職に成功し次期社長候補までになった人
● ガンと相続で行き詰まっていた状況を一気に好転した人
● 末期宣告されたアルコール依存症の症状を改善した人
● 万年赤字の状態から売上5〜6倍にアップした日々が続くカフェ
● 倒産寸前の状況から、億単位の仕事を断るほど忙しくなった中小企業
● 不慣れな職場への異動で辞職まで思い詰めた状況から、一転して経営者となった会社員
● まったく結婚できなかったのに2年でゴールインした40代男性
● ご近所トラブルを解消させた人
柴山さんの鑑定による、こうした“成功事例”は、枚挙に遑(いとま)がない。さすがにこの場で詳細を紹介しきれるものではない。多くの成功事例、方位学の真の力を多くの人に伝えようと、書籍も精力的に執筆している。「自分の運命を変えたい」「現在の状況をもっとよくしたい」と思われる方は、ぜひお読みいただくことを薦めたい。
もちろん、運命を変える方法を真剣に知りたいのであれば、柴山さんに直接会うことが何よりも確実な方法だ。
そして、人の運命は変えられる
人には生まれもった星がある。
「その星を生かすも殺すも『どう動くか』で変わる」と柴山さんは語る。
「人は、それぞれに運を持っています。方位学では、生まれ持った運を“先天運”といい、生まれた後から獲得する運を“後天運”といいます。例えば、金運、健康運、恋愛運、結婚運といったものはすべて後天運です」
変えられない運と、変えることができる運。
この双方の運の兼ね合いで人生は決まっていくという。
つまり、後天運を変えることで、人の運命は変えることができ、自分で思うように人生を切り開いていくことができる。
「ただし、その人にとってふさわしい運命に変えるためには、ふさわしい“時”と“方位”が揃っていないと意味をなしません。そこを見誤ると、その人にとって良くないことが起こります」
これこそ、まさに柴山さん自身の半生、そしてそれが本当かどうか、方位学を学び自らの身体を持って立証してきたから、その言葉には確固たる響きがある。
しかも、人生のどん底まで体験し、これでもかと言わんばかりの体験をしてきている。その中を生き抜いてきたからこそ、共感、深慮、知恵、さまざまな引き出しが無数にある。そこに方位学鑑定が加わり、自身の人生を変えてきている。
机上でただ学んだだけの鑑定家と、自分の半生を土台に身体を張ってきた鑑定家。
果たしてどちらの言葉に“質量”が感じられるだろう。
「人の運命とはそのままなのか」
「変えられるとしたらどう変えられるのか」
突然襲った人生のどん底を味わった体験は、幼い胸の奥底にそんな命題を宿した。
その命題に対し、今は方位学という武器を携え、これまでの半生を通して「運命は変えられる」という信念を抱いて、今、命がけで鑑定をしている。
これまでにない失意を味わったとき、多くの人が「自分の運命を変えたい」と考えるだろう。いや、そこまでいかずとも、「現状をもっと良くしたい」と考え願うことは世の常といっていいだろう。
そのような願いに対して、柴山さんは安心感を抱く質量のある鑑定で応える。
「自分の星をしっかりと把握し、これまでの動きと向き合えば、今をよりよくできる“方位”は見つかります。時運と方位を見極めれば、道は開けていくのです」
柴山さんは、人生の最後まで諦めずに成長を求める人に、方位の力で運命を変える術(すべ)を持って支え続けていくことを、天に誓いこれからも突き進んでいく。
Another Story 〜祐気旅行で、望み通りの引っ越しに〜
「祐気取り」とは、吉方位となる土地に足を運び、そこのパワーを得て開運に導く方法だ。プラスのエネルギーを吸収することによって、滞っていたエネルギーを活性化させる。
柴山さん自身も、つい最近起こったピンチを祐気取りで解消した。
ピンチとは事務所の引っ越しだった。
以前より、事務所の移転は検討していた。
折から東京都内では、「引っ越し難民」という言葉が飛び交っている状況だ。不動産会社や引っ越し業者の人手不足から、引っ越ししたくてもできない人たちが溢れている。そんな中で願っていた場所に物件が見つかった。早速引っ越しの準備を進めていく。
ところが、いざ引っ越し直前になってトラブルが発生。
いざ契約しようと書類に判をつこうとしたその時、移転先候補の事務所では、柴山さんが従来から契約しているインターネットプロバイダーを使えないことが発覚した。
事務環境が整わない場所に移転などできるはずもなく契約は白紙となる。
しかし、引っ越し業者の手配もして元の事務所は引き払う準備も進めている。
さぁ、どうしたものかと考えつつも、この状況でも祐気取りの旅行を敢行した。
旅行から戻ると、混沌とした状況が一変する。
新たな物件がすぐ決まり、もともと予定していた日程でも入居も可能となった。もちろん、場所も大きく変わらない。
誰もが物件を見つけられず、見つかったとしてもすぐに引っ越しができない状況で、「こんな出来事は奇跡に近い」と不動産会社の担当者も相当に驚いた。
柴山さん自身も祐気取りの効果にあらためて驚嘆した、と素直に語る。
方位学の核心に触れ、確信の念を強めたこの体験で、柴山さんの言葉はさらにまた頼もしい響きとなっていくだろう。
取材・執筆:しろかねはじめ(白銀肇/ことはじめライター)
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