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星組1789 革命の平等な悲劇

 宝塚歌劇団星組公演『1789―バスティーユの恋人たち―』が開幕した。有名な歴史上の出来事の一つ、フランス革命の前夜を描くこの舞台。フランス革命と言えば、舞台や映画に多く使用され、貴族や平民など違う視点から描かれ、多くの人を魅了してきた題材の一つである。有名な犠牲者としてはルイ十六世やマリー・アントワネットなどが挙げられるだろう。人々の懸命な生き様や強い信念は観る人に感動を与え続けてきたが、実際にこの革命は惨劇でしかない。舞台1789では、悲惨な時代の足音とともにその中で処刑される者や騒動の中、命を落とす者など平等に犠牲になりゆく人々の虚しさを描き出している。

 舞台は主に革命前夜を描く。礼真琴さん演じる主人公ロナンは父親を官憲に殺され、その復讐に燃える。それでもただそのことだけを望んだわけではない。パリに来て出会った友人たちと一致団結したり喧嘩したり、オランプに恋をしたり身分の差に悩んだり。ロナンはまさしくその時代に生きていた。楽しく笑うこともあれば、悲しみ苦しむことも、怒ることもある。舞台上でロナンは確かに生きていた。
 舞空瞳さん演じる恋人オランプも同じように、喜んだり悩んだり、思い切った行動に踏み切ったり、また悩んだり。大切にしたいものと自分の思いとの狭間で葛藤し、そして決断する。王政や革命といった時代背景を考慮させないほどに、舞台を観る我々と同じように息をしていた。
 主人公が革命派ということから考えて今回は悪役となるはずのマリー・アントワネットすらも、宮廷での暮らしに虚しさを感じ、フェルゼンとの叶わぬ恋に苦しみ、子どもを想い、良いことがあれば喜び、辛いことがあれば悲しみ。彼女もその時代に確かに生きていたのだと思わせてくれる。
 舞台の端から端に至るまで、登場人物が確かに生きている。感情を動かし、怒ることも笑うことも泣くこともある。理解できないことには首を傾げ、小さなことにも頭をひねり、毎日を生きている。ロナンたちにとっては苦しく暗い時代ではあったが、そんな中にも苦しみばかりではなく、人間らしい複雑な感情がずっと動き続けていることを思わせ、どの身分の登場人物も生身の人間であることを、観客は改めて認識することとなる。

 だからこそ、革命の扉が開かれたとき舞台が絶望に包まれる。ロナンはオランプとも落ち合い、新しい時代への希望とともに革命に向けて走り出す。しかし、観客にとってはそうはいかない。そこに確かに生きている人間たちに襲いかかる悲劇を目の当たりにすることになるからだ。
 この舞台は革命の全貌を描かない。今からフランスが革命の時代に突き進んでいくのだという余韻だけを残して幕が下りる。だから革命派の人たちはまだ希望に満ちた明日を夢見ている。しかし、マリー・アントワネットは自分の未来を予期し、不運な人々は次々に傷つけられる。登場人物一人一人が目の前で生きていたからこそ、悲劇に足を踏み入れていくその気配を観客は絶望を抱えながら見守ることになる。惨劇へと踏み出した後ろ姿を止めることもできず無力に見送るようなものである。

 そんな中、思い浮かぶのは一つの考えである。
 革命は誰のためだったのか――。
 結果的にフランスの人々は自由を掴んだ。しかし、そこに生きていた人たちにとってはただの地獄に過ぎなかったのではないか。いつ命を奪われるか分からない。いつ愛する人がいなくなるか分からない。そんな時代の中心を描かず入り口だけが描かれることで、観客はこれから起こることへの恐怖を感じずにはいられない。主人公ロナンが歴史上に名を遺した人物ではなく、「誰かこんな人がいたのでは」程度にとどまっている効果も大きい。中心人物ではないからこそ、その彼に訪れた悲劇は国中の隅から隅まで誰にでも起こり得るものだったと感じられる。彼らが足を踏み入れていく時代の恐ろしさを案じさせたまま舞台は観客から遠ざかって行く。

 フランス革命を悲恋や儚さで彩る場合が多い中、この話はその恐ろしさを真っすぐに伝えている。人々がもだえ苦しむからではなく、人々が確かにそこに生きていたから。その悲劇はそこに生きる人たちの身に平等に襲い掛かってくる。誰も逃れることはできない。誰も笑うことのできない時代の絶望の影を残して、この舞台は幕を下ろす。

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