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つれづれなる母のこと。

先日、母が養老施設に入居した。

来年90歳になる母。
健康ではあるけれど、物忘れも静かにすすみ、買い物や家事がそろそろ大変になってきたので、遅すぎるよりは元気なうちにと母も気に入っていた施設に入ることになったのだ。
私も急遽チケットを取って帰国。姉夫妻も合流。

お気に入りの広くて明るい部屋に2日がかりで家具を運び込み、嬉しそうに、でも寂しそうに、笑顔で見送る母に手をふって、それまで母の住んでいた部屋に帰宅する。

帰国以来一週間ぶりにひとりになり、人が生きるということは、どういうことなのかを、大阪の夜景の下、考えている。


私は両親が40歳を過ぎてから生まれた子なので、物心ついたときからの一番の願いは、「お父さんとお母さんが、長生きしてくれますように。」だった。その年の子どもにしては珍しいくらい、七夕にもクリスマスにも、ばかの一つ覚えのようにずっとそう書き、祈ってきた。12歳で親元を離れて寮に入り、結婚も外国でしたので、よけいに思いが深かったのかもしれない。

そして今、望みを叶えてくれた両親を、自分の元でみることなく、どこか別の場所にお願いするという現実を前に、いろんな思いが胸の底から湧き出てくる。


親の老後に、自分が日本にいないということ。
親の人生の最期に、おそらく一緒にいれないだろうということ。
あんなに愛して育ててもらったのに。
選択したのは、すべて自分。
いつも笑顔で見送ってくれた親。

親の長生きという望みを得るということは、その親が老いていく過程もつぶさにみるということ。その親に対して自分に何ができるのか、何ができないのかを、否が応でも味わうということだったのだと、今、思い知っている。


同時に、こんな思いも湧きあがる。

私が親の人生のそばにいるとかいないとか。
たかが自分の存在が、親の人生やその幸せをどうこうできるとか、してあげられると、そんなふうに思うこと自体が、ほんとうはとんでもなくおこがましいことなんじゃないか。傲慢なんじゃないか。

だって親の人生はどこまでいっても親のもの。
私がいてもいなくても、親はちゃんと立派に生きて来た。
とくにうちの親は、両親ともに、盛大に周囲に迷惑をかけながらもかなり楽しく、好きなように生きて来た人たち。そんな自由で彩り豊かな人生に大喝采を送るべきなのではないかなということ。

彼らの冒険とかけた迷惑の後片づけは、その多くを長姉が、真ん中の姉はどっかへ飛んでいっちゃったので残りを私が、早い時期から返済し担いつつ成長したので、そのために長姉は幼くいころからきっと深い傷をもって育ったし、私も人生進路を大きく変更した。そのことも含めて多分、両親はコトの実態を未だ認知していなくて、心から「強くていい子らに恵まれた、自分たちは本当に幸せ者だ」と感謝をしてくれる。

物事の良い部分だけを認知する、あるいはもしかしたらそこしか認知できないという特性を持つ両親の人生は、ある意味とても幸せなものだったのではないかなということ。

おかげで私たちはたぶん早い段階で家族という夢から醒め、人生の闇をちょっと深めに垣間見、おかげで強くなれたことも確か。これも両親からの一生ものの贈り物と思えば、かけがえのない宝物をくれた両親。
(つらかったけどね。)

それがいいことだったのか、そうでなかったのか。
語る人によって、同じ物語ががらりと変わるのだから、人生ってやっぱり奥が深い。


脳梗塞をして足に不自由の出た父は去年から、母とは別の、アルツハイマー型認知症にも対応した施設にお世話になっていて、とはいえ館内生活にはほぼ支障がないので、施設では「ぼくはかなりちゃんとした入居者なんだよ〜」と自負。「ここではアルツハイマーになったって大丈夫なのかと思えば、怖いもんもなくなって、むしろ頭がますます冴えてきた」んだそう。日頃はスタッフさんと一緒にみんなの健康管理や話し相手や食事当番をサポートしたり、一人の時間では新聞を読んだり英語を勉強したり、なんだか楽しそうで不思議。

先日訪問した時は「お母さんも、これからはようやく家事から解放されて、自分の時間が持てることが、僕は嬉しいんだ。人生はやっぱりクオリティ重視だからさ」と言っていました……。なんだそれ。


母といえばとにかく穏やかで、さりげないトータルケアのできる、優しい人。
思えば私が家を出たあとも、同級生がよくうちまで家出をしてきていた。父がそこらへんから連れてくる外国人もやたら多かった。母に優しくしてもらいたい人が多かったのだろう。

母はいつのときも、目の前のその人に、いい時間を提供することしか考えていない。考えられない。目の前のその人が特定の誰かである必要は、ある意味、そんなに大事じゃなかったのかもしれない。だから誰もが、母といるのが好きだった。
でも自分が母の目の前からいなくなったとき、自分はもう母の世界に深くは存在しないんだろうということを、私たちは子どもの頃から、ずっと心の奥で感じてきたように思う。

会話のできるAIが出てきて、一番最初に思ったのは「お母さんみたい」。
あの完璧な優しさが ―― これは現実なのか、それともすべては夢なんじゃないだろうか不思議になるあの優しさが、とても懐かしかった。


帰国してからの一週間、片時も離れず母と過ごしていたので、文字通り仕事以外でネットを開くことはなく、また自分一人の時間もなくなった。
あたりまえだが、なにも書かず、なにも読まず、思考も止まった。
あまりに近しい、完結した他者と共にいる者には、物は書けないのかもしれない。
ときに孤独は、最後の、ほんとうの友なのかもしれない。


これからの一週間は自分ひとり。
父母の幸せ、苦労をかけた長姉の幸せ、ついでにもう一人の姉の幸せも、祈りつつ。

どうすごすのか。
どうすごそうか。

母の暮らしていた部屋から見える、大阪の夜景が美しい。

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