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たとえばあなたの孤独に

たとえばあなたの孤独に、もし私が耳をすますことができたなら、それはとても素敵なことではないだろうか。

朝いちばんの海辺の砂浜を、
まだ誰の足跡もついていない柔らかな砂地を、
そっと素足で歩くこと。
その爪先についた一粒の砂を、空に透かしてなんてきれいなんだろうと思うこと。
それくらい、素敵なことなんじゃないだろうか。

そうしたときに、きっと意味が宿る。
あなたの孤独にも。
私の孤独にも。

いつの頃からだろう。
私は、人を『集合』で見てしまって、
たくさんの人が一体となって織りなす社会の底に
澱のように溜まっている集合的孤独を、
恐ろしいと思うようになった。

たくさんの人々の孤独が、融合することなく、
ただ一体化してどんよりと存在するとき、
それは得体のしれない暗渠となって足をからみとる、
抗いようのない沈黙の暴力のように思えた。

何より
外的な圧力だった攻撃性が、
気がつけばむくむくと内的に湧き上がってくる構図が怖かった。

そこから逃げたくて、きっと私はこの国を出たのだと思う。
そう、ただ、息がしたくて。

だから異国に救われた。
言葉もわからず、異質であることが前提の社会で、
私はただ息ができた。
周囲に溶けこめていないことが大前提の社会は、
私に生きることを許してくれた。
誰にわかられなくとも、自分だけの言葉を持っていること、
それでいいんだと思うことを許してくれた。

それから十数年がたった今、やっとわかったことがある。
集合的に存在する孤独も、ほんとうは、個々のものだった。
それはあなたの孤独であり、私の孤独であった。
ただ、あの頃の私はそれが見極められるほど、
ちゃんと自分の足で立てていなかった。
だから逃げた。
逃げられて、よかった。

もし今、目の前にひとつの孤独があるとする。
それがあなたの孤独で、たとえば私がそのあなたの孤独に、そっと耳をすますことができたとする。

それはとても素敵なことなんじゃないだろうか。

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