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今日は十日戎
めっきりnoteが書けなくなってしまって、ちょっと寂しい思いをしている。
という一文すら、実は本心からの言葉かどうかわからなくて、だって毎日、これでもかというほど仕事もし、人にも会い、寂しいなんて感じる暇はないはずなのに、なんなのだろう。
それでも寂しいと感じるということは、きっと、私は自分と会えていないんだろうなと思う。
うん、きっとそうだ。
現実世界の責任や立場からいっときでも逃れるために、オンラインではせめていろんな場で違う名を語ってちょっとでも気を抜き、別人であろうとしても、結局、その場その場に見合った人格が自然とできてしまい、(そうあるべきと自分が勝手に強迫観念を感じる)人物になろうとするために、無意識にがんばってしまう。だから次第にしんどくなる。ちゃんとその人格をなぞれない時期は遠のく。あたりまえのことか。
去年からお世話になっているオンラインサロンで、自分とは20歳も30歳も年の離れた若い人たちと出逢う機会があり、出逢うだけじゃなくて「なんとか部」とかまでつくって年甲斐もなくサークル活動までしながら、いろんな対話をしていて、ほんとうに感動することがある。
それをここで一般化してしまうのも違うとは思いつつ、
私が出会う彼らは、いけてる自分とかじゃなくても、ありのまんまの自分の声を、けっこうそのまま語れるんですよ。いや、ほんとに。
その姿がほんとうにかっこいい。惚れ惚れとする。
寒い、と思ったら、寒いと書く。
その単純なことを、きっと私はしてこなかった。
書くからにはそこに何か結論がなければ、学びがなければ、価値がなければ呟いてはいけない。そんな無意識の楔がすごかった。
だから当たり前だけど、ちゃんとしていない’自分は発言しなくなっていく。
今書いているようなつぶやきなんて、いっちばん嫌いの骨頂です。
でも、若い人たちのつぶやきがあんまり素敵で、憧れてしまったので、ちょっとの間、真似してみたくなった。
少数の素晴らしい文筆家をのぞいて(素晴らしい記事は、ほんとうに素晴らしい…)、あとは素人のつぶやきの垂れ流しと意地悪な人たちに揶揄されるnoteだから、せめて何か意味のあることを書かないとという気概だけはなくすまいと思っていたけれど・・・・・・あきらめよ。
戎さんも許してくれるだろう。
今日は大阪今宮の十日戎(とおかえびす)。
十日戎について書かれた文章を、今日の日本語の生徒さんと勉強した。
大阪の戎さんは、参拝に来るみんなが、あまりにうるさく願い事をがなりたてるから、耳が遠くなってしまったらしい、と書いてあった。
どんな文章やねん。