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ラーゲリより愛を込めて


観てきました。
率直に言葉にならない映画でした。
観終わって何も言えなくて、気持ちが渋滞していて、どんな感想や想いも口に出すと直ぐに消えてしまいそうな感じ。
そんな私の中の心の渋滞をこのnoteに書くこと。気持ちの整理をするのも状況を飲み込むのにも少し時間がかかりました。

映画は月に4本くらい劇場に観に行くのだけれど、久しぶりにパンフレットを購入しました。
余韻に浸りたくて浸りたくて、まだ現代を生きる自分に戻りたくなくて。

もしも、その時の気持ち、感情や空気を保存できる箱があるのなら私は真っ先に、この気持ちを大切に大切にしまっておきたいし、宝箱としてずっと大切にしていたいと思う。そんなどうしていいかわからない気持ちでした。

この作品を観終わって、ブラックコーヒーを飲みながらパンフレットを拝読した。

今の時代だからこそ、今の私だからこそ考えさせられることがあったと思う。
戦争を知らない私は自ずと今を生きる自分の生活と重ねた。
同時に自分の未熟さを感じ、現代を生きていること、恵まれていることが当たり前じゃないことを身をもって改めて感じたと思える。

自身の未熟さを感じたことについて、私の両親のことを真っ先に思い出した。

ここからは私の話になる。
大人になって、厳しく育てられたことに対して私は両親を何度も何度も恨み攻めた。
今の言葉で言うならば、私は、毒親育ちだったと思う。
"厳しい"の一言で言えば、それぞれが想像がする家庭環境はあると思うが、私の家庭環境を言うならば、理不尽の連続の幼少期だったと思う。

好きなものを主張すれば取り上げられ、朝目覚めたら無惨な姿で私物を捨てられ、理由もないことに叱られ、何が悪かったかも教えてすらもらえない。
いつの間にか怒られないように親や他人の気に障らないように生きており、かと言って両親をやばいだとか、他者から私の気持ちに同調して批判されるのも嫌で、周りには私の親は素晴らしい尊敬していると言い続けていた。

私は何が好きだとか、何が嫌なのかも分からず生きていたと思う。それに気づいたのが20歳過ぎてから。
何者かになりたくても、何になりたいかもどうしたいのかも、自分との向き合い方すら分からなくて、人の真似をしてみても、最初は良くても時間が経てば当然だが、これは私じゃないことに気づき苦しんだし1人泣いたこと。

大人になってこんなにも自分のことなのに自分自身がわからず辛い思いをするのなら、反抗してでも好きなものを好きだと、嫌なことは嫌だと主張し、理不尽の理由もわかるまで従わなければよかったと思った。

勿論厳しさに感謝をすることもあったし、実際、いつかは必ず世に出ていく自分の子供のことを考えたら、当時の日常は、世の中の厳しさに比べたら優しく、両親にとっての最善だったのかもしれないとも思ったことは何度もある。実際私は未婚で子供を育てたことすらない。計り知れない苦労だとも感じる。

だけど、恥ずかしながら私には相手の気持ちばかり考えている余裕なんてなかった。私自身の個人の感情を無視もできないし、もう無視はしたくない。でも、両親のことも傷つけたくはない。
両親の立場に立ったら娘に文句を言われるなんて、私だったら絶対に傷つくし嫌だもの。
そんな気持ちの葛藤の連続だった。

映画の話と大幅にずれてしまったが、
そんな私の気持ちから、作中どんな境遇でもどんな理不尽な環境でも愚痴ひとつ言わず希望を見つけ信じて生きていた主人公の心の豊かさに自分自身の生き方を改めて考えさせられた。

文句や恨みたい気持ちや色んな気持ちがあるはずなのに周りや家族に愛を絶やさない姿に自分の人間の小ささを感じた。
同時にもっと広い目(心)で見て、周りや環境を愛し、許せる大人にならないといけないとも思った。

主人公は周りを許す姿が私は印象的だったが、遺言から自分自身のことを1番許した人だったのかもしれないとも感じた。

そしてこの気持ちをずっと忘れてはならないし、覚えていたいと思っている。

自身の辛かった気持ちを諦めるという言葉ではないけれど、私は私の人生をゆっくりでいいから自分と向き合って、不器用ながらも不器用なりに向き合ってゆっくり生きて行きたいと思った。

そういう気持ちになれたのだから、私の知らない時代や戦争をきちんと過去の現実を知らなきゃいけないと思う。
そう考えたら、私の人生を宝物のように大切にできる気がした。

感情が溢れてとても纏りのない映画の感想にはなったけれど、明日から希望を見つけて今に感謝しながら生きていける勇気をもらえた映画でした。

最後に。
二宮和也くんはやっぱり原点であり頂点でした。
彼の演技はいい意味で力を感じずとても自然なのに魂が最大限にこもっていて素晴らしく好きなのです。

#005

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