おっぱいの中に揺れる野望

自分の体が嫌いだった。

美人でもない。可愛らしくもない。フリル袖のブラウスを着るとヱヴァンゲリヲンと間違えるほど肩幅は広い。走れば遅く、止まると大きく、汗っかきなのに乾燥肌で、身長に対して胸が大きい。数えればキリがないほどコンプレックスの塊だった。

今でも少し残っているそれらの塊は、大人になればなるほど、強い武器に変わっていく。昔の自分に教えても、きっと信じてはくれないだろうけど。


小さい頃、父親に「足が遅いから体育の授業に出たくない」と、泣きながらにうったえた事があった。

競走はもちろん万年ビリだし、それが笑えるほど面白いわけでもないので、周りの視線がただただ辛い。足が遅い、運動が出来ない、それだけで友達の見る目が変わっていくのを感じた私は、まるで自分の世界が終わるかのような気がして、こんな悲しい競技は参加したくない!と、切実に思った。

足が早いだけで人気者になる。クラスの中心で笑う事が出来る。つまり、今まで楽しくやってきたのに、【足が遅い】というだけでクラスの中心に居られなくなる。そんな不安が、私の中に渦巻いていた。

こんな時、普通の親なら「負けるな、頑張れ」だとか「諦めるな、とにかくやれ」だとか、子供に対して前を向かせるような言葉を投げるのだろうが、私の父は違った。


「足が早いのは、そんなに偉い事なのかい?」


そう言われると、そうでもない気がした。

足が早いから大統領になれるわけではない。大人になれば車に乗れるから、運転が上手い方がいくらか偉い気がしてくる。足が早いから親切な人間な訳ではないし、足が速い人が偉いからチヤホヤされている訳ではない。そう考え、幼いながらに立ち止まる。


「足が遅い事を恨むより、二重まぶたに産んでくれたお母さんに感謝しなさい。早く走れる足より、ずっとずっと価値があるから。」


父親はそういって、テレビを見続けた。

何事も無かったのように私は泣き止み、翌日からは、馬鹿にされようと笑われようと体育の授業に参加した。それと同時に、鏡を見る時間が以前より少しだけ増え、自分の事を少し、好きになれたのだった。


誰かに肯定される事は、ものすごい力を産む。

たいした事じゃなくていい。字がキレイだねとか、物覚えが良いねとか、そんな些細な事でいい。誰かに褒められて、それでいいんだと気付けるだけで、世界は空の色を変えていく。肯定出来る様になればなるほど、たくさんの事が楽しくなって、いろんな事が次に繋がって行く。

自分の容姿は選べないけれど、心の持ち方は自分で変えていく事が出来る。心の持ち方を変えれば、自分の世界は変わっていく。それは大人でも、子供でも同じ事なのだ。

コンプレックスの一つだった自分の胸も、「中に夢と希望が詰まっているんだ!」と笑える様になってからは、なんだか誇らしく思えてくる。

今日も明日も明後日も、いつか子供が出来て吸われ尽くしても、おばあちゃんになってシワシワにしぼんでしまっても。死ぬまで私のおっぱいは「私のおっぱい」なのだから、誇り高く大切にしよう、と心に決めている。

ここに揺れているのは脂肪なんかじゃない。

私のおっぱいには、野望が揺れているのだ。





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