ショートショート 「緊急搬送トリアージ」
齢50になるニートの息子が階段から転げ落ちた。
ど、ど、ど、どどどどど、どんどどどんど、どん…どた。
そこへ御年75を数える母親が様子を見に現れてひと言。
「まあ…」
息子は階段の下で伸びていた。
母親はすっかり気が動転し、あたふたするばかりである。
しかし程なくして気を取り直し、スマートフォンで119番通報をした。
「はい。こちら119番です。火事ですか? 救急ですか?」
「救急です! 息子が、息子が…」
「落ち着いて下さい。救急車が必要ですか?」
「必要だから電話したんですよ!」
「ええ、ええ。分かりました。ではご住所を教えて下さい」
「じゅ、じゅ、じゅ、じゅ…」
「あのう、ゆっくりとで結構ですから、落ち着いてご住所を仰って下さい」
「は、はい。えーっとえーっと、住所は、あおむ市うごめ区もんしろ町1の2の3です。郵便番号は…」
「郵便番号は結構です。お名前は?」
「そんなことより早く救急車…」
「出動の準備は出来ておりますのでご安心下さい」
「準備してないで走って下さいよ!」
「あの、お母さま。私はいま救急隊が最善を尽くすために必要な情報を伺っているのです。息子さんのために、なにとぞ落ち着いてご対応願います。お名前を仰って下さい」
「名前って、私のですか? それとも息子の?」
「世帯主さまのお名前をお願いします」
「世帯主は、私、スズキハナコです。あ…」
「どうかしましたか?」
「いま申し上げました通り、世帯主はたしかに私なんですけれども、門柱には亡くなった主人の名前を記した表札を掲げておりますので、お越しの際はぜひともご注意願います、主人の名前はスズキノブアキと言います、ノブアキのノブは、フォークデュオあのねのねの原田伸郎さんの伸、アキは相方の清水国明さんの明です、そして苗字のスズキはそこらじゅうにいる一般的なスズキ、すなわち、はっ…はっ…俳優の鈴木亮平さんとおなじ鈴木ですのよ、いやん、まあ主人はあんなイケメンじゃありませんでしたけどね、オホホ、残念だわ、なーんちゃって、オホホホ」
「あの…」
「ちなみにですが、どうして亡くなった主人の表札を掲げたままにしているかというと、親戚にそうするよう勧められたからです、近ごろ強盗事件が増えているみたいですからね、まったく恐ろしい世の中になったものです、ウチもセコムとかああいうのに入ったほうがいいのかしら? まあそんな話はさて置き、私は決して表札を作り直すお金を惜しんでいるわけでも、怠慢から放ったらかしにしているわけでもありませんので、くれぐれも誤解しないで下さいね、オホホホホ」
「あの鈴木さん…」
「主人が亡くなったのは2年前、死因は肺がんでした、お医者さまはタバコが原因だと断定なさいましたが、ホントにそうなんですかね? 主人は亡くなる7〜8年前から禁煙していたんですよ、そりゃまあ、それ以前に何十年もタバコを吸い続けていたんだからそれが祟ったのだ、と言われたら、あーそうですか、と納得するより他はないのですけれども、なんせ私は素人ですから、専門的なことは分かりかねますから、でも聞くところによると、喫煙習慣のない肺がん患者が年々増えているというではありませんか、これはあくまで私の個人的見解に過ぎませんが…」
「あの…」
「大気汚染物質をはじめとする有害化学物質が要因となった可能性も大いにあるんじゃないかと思うのです、もちろん環境的要因以外に遺伝的要因も…」
「鈴木さん!」
「ハイッ!」
「いまは息子さんのことを第一に考えるべきですよ」
「ああ。…た、たしかに、そうですわよね、死んじゃった者のことを今更どうのこうの言ったところで、生き返るわけじゃありませんものね、オホホホ」
「そんなことひと言も言ってませんよ。私はただ…」
「一旦話し始めるとどうにも止まらなくなってしまうんですよ、昔からの悪いクセでして、主人からもよく嗜められたものです、普段から自分なりに気を付けているつもりなんですが、話しているうちに頭のなかに快楽物質がドバドバーっと湧いて出まして、脳がひたひたのちゃっぷんちゃっぷん状態になってしまうんですの、こういうのってやっぱりお医者様に診て頂いたほうがいいのかしら?」
「ちょっと、その判断は私には…」
「あ」
「どうしました?」
「そう言えば、質問の途中だったのでは?」
「質問…? あ、そうだ。息子さんがどうなさったんですか?」
「息子…? あ、そうだ。階段から落っこちてしまったんです」
「そりゃ大変だ」
「大変なんです」
「意識は?」
「あります」
「呼吸は?」
「しています」
「外傷は?」
「ないようです」
「ふむふむ。ところで息子さんは男性ですか?」
「当たり前でしょ」
「いや、最近は多種多様なパターンがあるので念のため…」
「よそ様のことは存じませんが、ウチの息子は歴とした男です、名前は鈴木太郎、50歳、持病はアレルギー性鼻炎と円形脱毛症です、無職です、未婚です、高卒です、趣味はパソコンです、掛かり付けの病院は、あおむ市総合病院です、いま掛けている番号は090-◯◯◯◯-◯◯◯◯です」
「…」
「もしもし?」
「必要な情報はすべて承りました。救急車はすでにお宅に向かっておりますので、玄関の鍵を開けてお待ち下さい」
そして数分後、救急車が鈴木邸に到着した。
母親は玄関の扉を開けて待っており「いらっしゃい!」と、寿司屋の大将顔負けの威勢のいい挨拶で出迎えた。
ふたりの隊員が協力して救急車から車輪付きのストレッチャーを下ろす。
そしてそれを玄関のまん前に着けるや否や、彼らは一斉に「ぎゃぁー!」と声を上げた。
きょとんとする母親。
いっぽう隊員たちは青ざめた顔を互いに見合わせ、ウンウンと頷き合ったあと、息子ではなく母親を抱き抱えてストレッチャーに乗せた。
「あ、あの、私じゃないんです。階段から落ちたのは息子でして…」
隊員のうちのひとりが玄関から家の中を覗き込んで言う。
「彼は大丈夫だ。後回しでいい」
救急車は鈴木邸に息子を置き去りにしたまま、母親を乗せて救急救命センターに向かった。
「どうして私が搬送されるんですか?」と、不思議そうな面持ちで訊ねる母親に、隊員はやや語気を荒げ、嗜めるような口ぶりで言った。
「すねの肉が削げ落ちて骨が露出しちゃってるからですよ!」