陰路(かげみち)
一ヶ月前の夜中、ふと眼を覚ました私は、隣の布団に寝ているはずの娘がいないことに気付きました。
夢遊病とまではいかなくても、よく寝徘徊のする子でしたので、いつものことかと思い、居間へ行ってみると、やはりそこに娘がいて、窓の外をじっと見つめていました。
寝させようと声を掛けると、娘はいつもの寝ぼけ顔とは違い、はっきりとした顔で私にこう言いました。
「おかあさん、誰かが家のまわりをグルグルまわってる」
私には心当たりがありました。
娘の父親と――前の夫のことです――離婚をしています。離婚してもう六年以上経ちます。娘が生まれて間もない頃のことでしたから。
一昨年の秋口、ある一人の男性と知り合い、お付き合いをしました。ですが、その方とは再婚まではいきませんでした。娘がどうしてもなつかなかったのです。またその男性も、娘を可愛がってくれる人ではなかったからです。
彼とは一年も経つか経たないかのうちに別れることになりました。いえ、情の薄い男性ばかりを好きになる私にも非はあります。
ごめんなさい……話がそれましたね。
私はてっきり、前の夫か、その男性(Aさんとします)が来てるのかと思いました。
時計を見れば、時間はもう午前二時を過ぎています。どちらにせよ非常識な時間です。注意をしようと外に出ましたが、誰もいません。
娘に、誰だったかわかるか聞いてみました。娘は「あのおじさんだった」といいました。
Aさんのことです。
次の日、Aさんの携帯電話に電話をしました。迷惑でしたから、やめてもらおうと思ったのです。
携帯電話は繋がりませんでした。電源を切っているわけでもなさそうです。
次にAさんの御両親に電話をしました。いえ、話を大きくするつもりはありません。連絡先を教えていただけないかと思ったのです。伝言するわけにもいかないですし、こちらの電話番号は教えたくは無くて……Aさんと別れようとした時、電話でしつこかったこともあり、アドレスを変えたりしたのです。
意外なお返事が、御両親から返ってきました。
ほんの数カ月前、Aさんは亡くなったというのです。
その夜のことです。
私は起きて確かめたかったのですが、朝の早い仕事に就いていたこともあって、つい寝てしまいました。
娘に起こされて眼が覚めました。また、「誰かが家のまわりをぐるぐるまわってる」と言うのです。
私は窓辺へ行き、カーテンをそっと開けて外を見ました。ちょうど、黒い影が窓の下を通り過ぎていくところでした。気配で、居間の窓とは反対側の、玄関のほうへ行くのがわかりました。そしてまた居間の窓を通り過ぎるのです。
私は恐ろしいことに気が付きました。
この家は角地に建っていて、道路をつかえば『半周』することは容易なのですが、隣の家との間は、犬や猫が通るくらいの隙間しか無く、一周することなど不可能なのです。いえ、無理をすれば大人の男性でも隙間を通ることは出来ます。ですがその影は、まさにぐるぐると、小走りをするような速さで周っているのです。
その影は――見覚えがある横顔と後姿――確かにAさんでした。死んだ筈のAさんでした。
夜中でしたが、私は自分の実家に電話をしました。私が頼れるのは、親だけでしたから。
私の実家は、東北のとある山村にあります。そして代々、霊感の強い女性が生まれる家系であるとも聞いていました。ですから私も娘も、感が強いほうです。
電話に出た両親は、私の話を信用してくれました。
こんな時に頼りにしているお寺があるそうで、直ぐそちらに連絡を取ってくれると言いました。
電話を切った頃には、黒い影の姿は消えていました。
次の日の夜から、その影は現れませんでした。
実家へ電話すると、その頼りにしているというお寺のご住職が、祈祷を始めてくれたとのことでした。
明くる日、わざわざ父が来てくれました。 手には、ご住職から託されたという、木で造られた小箱と小さな紙の御札、それと塩を持っていました。
日が暮れる前にその塩を皿に盛り、玄関に置くようにとおっしゃられたそうです。そして朝、塩を取り替えるようにと。
父はその荷物を置くと、すぐに帰りました。
私は、忙しい父を煩わせた申し訳なさと、親の暖かさに感謝しました。
早速、その日の夕方から、盛り塩を始めました。なんでも、塩に変化が現れるそうです。そして、変化したその塩を木箱に入れ、満杯になったら御札を貼り、封印せよとのことでした。
まだ、盛り塩は続いています。塩の変化は、日に日に薄らいでいくのがわかります。
塩がどう変化するのか……例えるならコールタールのような濃い紫色のドロドロしたもの、と言えばいいんでしょうか。白いさらさらとした塩が、なぜか汚らしく変化するのです。どうしてそうなるのか、私にはわかりません。
黒い影こそ現れなくなりましたが、Aさん、どうか成仏して下さいと、祈る毎日です。
了