脱走防止?侵入防止?~遊廓内診療所の金網撤廃問題~
はじめに
戦前の名古屋市には「中村遊廓」と呼ばれる公娼街が存在した。同遊廓の最盛期となる昭和12年には140軒の貸座敷に1,983人の娼妓が抱えられており【1】、その娼妓たちの性病健診、治療にあたったのが「県立名古屋診療所」(後に県立中村病院と改称)である。今回の記事では昭和4年12月にこの診療所をめぐって起きた、あるエピソードを紹介していきたい。
県立名古屋診療所について
県立名古屋診療所は明治8年に設置された名古屋検梅所をルーツとし、後に県立駆梅院→県立名古屋診療所と改称、大正14年に市内中区竪三ツ蔵町から中村遊廓の北西隣接地へ移転した【2】。その後、昭和5年4月には県立中村病院と再度改称され、戦後は赤線「名楽園」給仕婦の健診施設となった。名楽園廃止後の昭和33年以降は一般向け診療施設として診療を継続したが間もなく閉院、建物は看護師専門学校などに利用された。現在跡地は日本赤十字社所有となり、同社の関連施設が置かれている。
『娼妓取締規則施行細則』と『愛知県統計書』から
昭和4年時の娼妓健診の状況についてまとめておきたい。当時の娼妓取締りについては明治33年11月14日に愛知県によって発令された県令第86号「娼妓取締規則施行細則」【3】が適用されていた。同施行細則第12条によると名古屋市の貸座敷免許地内(遊廓)に居住する娼妓は「名古屋健康診療所」で健診を行うこと、また第13条では毎月6回の受診が義務付けられていた。
『愛知県統計書』【4】の記録によると昭和4年の名古屋診療所の年間受診者総数は90,385人、うち有病者と認められた者は840人(淋病が最も多く655人、軟性下疳146人と続く)となっている。
【新聞記事から】
■診療所の金網撤廃について問題提起(12月10日)
中村遊廓が新設されて約6年が経った昭和4年、12月10日に開催された愛知県会通常連帯会において診療所に関する次のようなやりとりがあった。以下、当時の新聞記事を原文のまま紹介したい。
※宮崎鐵三郎・・・名古屋市選出の県会議員(民政党)。昭和6年8月の臨時県会では県知事に対し公娼廃止を強く求めるなど、遊廓問題・公娼廃止について積極的な姿勢を取る議員であったようだ【5】。
■診療所の金網撤去が決定(12月14日)
12月10日に議題となった診療所の金網問題は、県当局で慎重に検討された結果、僅か4日後の同14日に金網撤去が決定した。これを受けて宮崎議員と村島衛生課長はそれぞれ次のようにコメントを残した。2人のトーンには大きな違いがあることが読み取れる。
■金網撤去、その後…(12月23日)
金網が撤去されてから間もなく、診療所内に「痴漢」(娼妓の馴染み客などか)が侵入する事象が発生。宮崎議員が問題提起したこの件は、結果として当初衛生局課長の答弁にあった「侵入防止」という機能を持っていたことが明らかになってしまったのだ。このことで更に取締りが強化されたというが、その後の動向については不明である。
おわりに
本記事で紹介したエピソードは単なる滑稽話ではなく、遊廓へ対する視点が変われば、その形は全く異なるものに見えてくるということを知る一例である。公娼廃止に取り組む議員と、実際の管理者の考えは全く異なるものであるが、どちらも自らの立場において誠実に発言、対応した結果だったのではないだろうか。
このような例は全国各地の遊廓に存在する。例えば貸座敷に設置された格子窓、固く閉じられていた門扉、外周に設けられた水路(堀)、コンクリート壁などは同様に娼妓(遊女)の脱走防止であったと語られる、しかし、これらの事例も客観的な視点をもって改めて検証してみることが必要ではないだろうか。戦前の遊廓はどんなところだったのか。まだまだ我々が知らないことは多い。
■参考資料
【1】『愛知県統計書 昭和12年 第5編』愛知県,昭和11‐18年
【2】『愛知県衛生年報 昭和34年』愛知県衛生部保健予防課,昭和35年
【3】『愛知県公報 號外第七百九十九』愛知県,明治33年11月14日
【4】『愛知県統計書 昭和4年 第4編』愛知県,昭和6年
【5】『愛知県議会史 第6巻』愛知県議会事務局,昭和42年
【トップ画像】『中村区史』中村区制十五周年記念協賛会,昭和28年
【図1】稲川勝二郎『歓楽の名古屋』趣味春秋社,昭和12年
【図2】『新愛知』大正14年6月18日
【図3】 令和2年、筆者撮影
【図4】『愛知県統計書 昭和4年 第4編』愛知県,昭和6年
※新聞記事日付は本文内に記載