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遊廓のモダン化【NAKAMURA 1932】


はじめに

昭和初期、名古屋市の公娼街・中村遊廓では貸座敷の洋風改装、及び遊興方法を近代的なシステムに改める「遊廓のモダン化」が起こった。1934年(昭和9年)には全貸座敷の7割程度に洋風改装(一部の改装を含む)が施されており【1】、最盛期である1937年(昭和12年)に発刊された『歓楽の名古屋』【2】では「全廓内はネオンの不夜城、そのネオン多きことは正に東洋一」と称されるとともに、巻頭には洋風の建物と照明に彩られた歓楽街の姿が掲載されている【図1】。

【図1】1937年(昭和12年)頃の中村遊廓
の中心部、大門町の様子【無断転載禁】

「遊廓のモダン化」へ向けた動きは東海地方の岐阜や豊橋、また東京や大阪など全国の都市部でも同様に進んでおり、近代遊廓史の大転換点となる事象であったと考える。しかし、現代において遊廓といえば贅を凝らした壮大な妓楼建築、また花魁に代表される豪華絢爛な衣装をまとった高級遊女の姿など近世期の「くるわ」像に多く関心が集まり、全国的に起こったこのモダン化の実態については殆ど知られていないともいえる。

今回の記事では遊廓のモダン化が起こった背景、またその実際について当時の新聞記事、刊行物、統計書データ等から情報を整理し、その理解を深めていきたい。


モダン化の背景

遊廓のモダン化が起こった背景にはいくつかの理由があった。

■恐慌による不況の影響
大正末期に発生した関東大震災とその後の金融恐慌、また昭和初期の世界恐慌に端を発する昭和恐慌によって、当時の日本社会は大きな打撃を受けていた。その影響は都市部だけでなく農村から漁村にまで及び、当時の新聞記事では遊廓の貸座敷の廃業や「倒れ掛かっている」店が多数あったこと、また遊興金額が減少し芸娼妓の稼ぎ高にも影響が出ていたことなどが報じられている【図2】【図3】。

【図2】「寂しい遊廓」と見出しが付く記事
【図3】不況によって遊興費が減少

■「カフェー」の台頭と遊廓没落時代
また、当時は全国各地で新しい風俗業態「カフェー」が台頭していた。モダンな女給たちに接客サービスを受ける近代的で刺激的な空間、そして現代人にマッチした遊興システムは大いに受け入れられ、遊廓や芸妓街という旧来からの遊興街の勢力は次第に弱まっていった【図4】。

【図5】カフェー街は遊廓の脅威であった

カフェー同様に公娼街の大きなライバルとなったのが当時、名古屋市東区(現在の北区)大曽根、中区(現在の昭和区)御器所等、市内各所に存在した私娼街である。表向きは飲食店として営業しながらもその実態は性売買の場であり、短時間・安価で目的を遂げることができるこれらの業態もかなりの遊客を集めていたようだ【図5】。当時の観光ガイドともいえる『百万・名古屋』【3】ではこれらの私娼街に関する記述がある。非合法であるはずのエリアが半ば公然と紹介されていることは大変興味深い。

【図5】戦前の私娼街のイラスト(一部)【無断転載禁】

当時、公娼街である遊廓と私娼街は市民にどう捉えられていたのか、次のような記事がある。1922年(大正11年)『新愛知』【4】での内務省、潮衛生局長(当時)の考察だ。

或る放蕩者の話に公娼は多く田舎娘を拉致して來て一廓に閉ぢ込めて了つたので我々都會人とは全然思想が違ふから、公娼は面白くないと言つてゐたがこれも一面の眞理を語るものであらう、又一面には、現代は萬時簡単を貴ぶ風があつて、従來の如く情󠄁弊の多い公娼制度よりも低廉な金で簡単に要領を得る私娼に走るのではあるまいか。……

『新愛知』1922年(大正11年)1月3日【4】

当時の新聞記事・刊行物から

このように中村遊廓が不況や新業態のライバルによって衰退の一途をたどる中、「遊廓のモダン化」は起きた。次に紹介するのは1932年(昭和7年)7月、中村遊廓のモダン化に関して触れられた初めての記事である。

■遊廓のモダン化に関する初めての記事【5】

【無断転載禁】

遊廓にも吹く時代の風

東海一を誇る中村遊廓の意氣地に生きる古典の殿堂にも押しよせたモダン味はどうすることもできず、ことに古い殻を破り傳統的因習を□(な)げうち新装こらして現れたのが第一徳栄樓、アツといはせた廓内の高楼櫛比の間から更にもう一度アツといはせやふ魂胆か、去五月から改造にとりかゝり更に新館を増築しこれもでき上つて九日から御目見得することになつた、ついでに名も改めて「一徳」とし洋風の外観、部屋に洋間を設け和洋折衷の新装、ことに照明に苦心したところにモダン味があり、生まれ代つた青樓の感覚を時代の子にふりまかうという寸法……

『名古屋新聞』
1932年(昭和7年)7月8日【5】 

次に中村遊廓でのモダン化について記事が確認できるのは同年の12月。7月に竣工した一徳に続き、新福楼、中村楼、森田楼、大吉楼などが遊興システムを改め切符制やノーチップ制度へ移行、ネオンや色電灯を採用した改装を行ったと報じられている。記事内にある「円助」とは1円程度で簡易的に遊興できることを指していると思われる。

このモダン化は遊興客に大いに受け入れられ、同月(12月)の登楼者は増加、不景気を吹き飛ばすほどの勢いであったという。

■1932年(昭和7年)年末時点の中村遊廓の状況【6】

【無断転載禁】

今年の廓風景は今までと異なつて赤紫のネオンサイン、色電燈などによつてすこぶるモダン化してゐる色電氣の松飾に色映えるところは一九三二年から三年への新風景だ遊廓のモダン化は市内のカフエー進出の影響を受け群小女給のエロサービスや家政婦發展の、ための自衛策として客の注目をひくモダン化。切符制度、ノーチツプと廓の形いオキテが破られた円助、ノーチツプで簡易遊興のトツプを切つて一日百余名の登樓客があつた一徳と云ふ店のいはゆる営業施策に刺激され最近では新福樓、中村樓、森田樓、大吉樓等々續々としてモダン化と円助、ノーチップ主義の店が出來た、いはゆる遊興の簡易化が——三二年から三三年の時代の要求するものらしい、インフレ景氣に見舞わはれて、廓の不景氣は吹飛ばされやうとしてゐる一ケ月九万人の登楼客が十二月の如き十三、四万を突破する状態だ

『新愛知』
1932年(昭和7年)12月29日【6】

また、翌年の1933年(昭和8年)4月に発刊された『郷土風景』【7】では中村遊廓のモダン化の状況について次のような記述がある。

■中村遊廓内のモダン化の状況

さてこの中村こそは全國一の大遊廓で規模の廣大な點では他の追従を許さない。昨今二三の店が外観を洋式に改造した外多くは純日本建で……

『郷土風景』2(4)【7】

■史料から読み取れること
これらの記事、史料からは、1932年(昭和7年)7月に中村遊廓羽衣町の貸座敷「第一徳栄楼」が「一徳」と屋号を改め、建物の洋風改装を行ったこと、また同年12月までには新福楼や中村楼等、複数の貸座敷がそれに続き、それぞれ「簡易遊興」とされる遊興制度への改革を進めていたことがわかる。

また、1933年(昭和8年)4月頃の段階で改装が施されていたのはまだ2〜3軒に留まっていたとも読み取れる。


新しい遊興システム「切符制度」

新聞記事で「簡易遊興」とされる新しい遊興方法については、切符制ノーチップ制の採用が挙げられている。明治以来、名古屋の遊廓における遊興制度は基本的に線香1本を12.5円(のちに13.5円)で換算し、燃え尽きる時間×本数から遊興代を算出するものであった。線香代の計算は紋日や正月などには1本あたりの時間が短縮されたり、時代(物価)によってその本数にも変動があったという【8】。このような複雑な料金体系から「〇分〇円」といったわかりやすい料金システムへの改革は遊客に大いに支持されたようだ。

この切符制は全国各地の遊廓でも採用されており、1933年(昭和8年)の『郷土風景』には東京・新宿の他、本記事でも触れている名古屋・中村等の貸座敷で使用されていたチケットが紹介されている【図6】。

【図6】『郷土風景』で紹介されている切符
【無断転載禁】

次々と洋風改装される貸座敷

洋風改装された一徳については、当時の写真が絵葉書の形で残っている【図7】。絵葉書に年代や撮影目的を示したキャプションは付けられていないが、前項の記事で紹介した1932年(昭和7年)の洋風改装を記念し撮影、製作されたものであったと考えられる。

【図7】一徳の絵葉書【無断転載禁】

ただし、これらの改装はあくまでも既存の建物を「洋風」に仕立てたに過ぎず、通りに面した外観部分と内部の一部の設備のみを改装したものであった。外観部以外の殆どは大正期に建築された中庭付の純和風建築であり、西洋の城郭や宮殿風デザイン等、かなり強引に改装したようなものも多かったようだ【図8】。

【図8】洋風に改装された貸座敷【無断転載禁】

統計書データから見るモダン化

遊廓のモダン化、特に遊興方法の改革は市民に大いに受け入れられ、昭和初期の不況で苦しんだ遊廓は息を吹き返していくことになる。モダン化前後の中村遊廓の状況は『愛知県統計書』のデータ【図8】でその一端を読み取ることができる。

■愛知県統計書データ

【図9】『愛知県統計書』から筆者作成

中村遊廓の遊客1人あたりの遊興費は、1923年(大正12年)の遊廓開設年から1929年(昭和4年)まで3円代後半から4円代を推移(初年度は除く)、以降は1人当たりの遊興費は再び3円台から2円台にまで落ち込んでいる。1934年(昭和9年)に発刊された『名古屋案内:附・郊外近県名勝案内』によると、当時の中村遊廓での1時間あたりの遊興費について次の様な記載がある【9】。

揚代金一時間一圓乃至三圓、泊り四圓乃至十五圓

『名古屋案内:附・郊外近県名勝案内』【9】

【図9】の通り、この年の統計書データでは1人あたりの遊興費は2.5円であるから、遊客のほとんどがごく短時間の遊興で店を後にしていたことになる。

年間遊客数は開設の翌年から70万人台、遊興費は300万円台で停滞しはじめ大正末期に一時的に、そして昭和恐慌が起こった1930年(昭和5年)以降は再び300万円台を割り込む。この時期の遊興費の減少は本記事内の【モダン化の背景~不況とカフェーの台頭】で紹介した新聞記事でも報じられている通りだ。しかし、年間遊客数は1931年(昭和6年)以降増加、特に1930年(昭和5年)から1937年(昭和12年)までの7年間で2倍以上となる160万人超までの大幅な増加を見せている。これらはモダン化の影響であり「より安価」「より短時間」で遊興する客が増えたことを示しているのではないだろうか。一方で、モダン化以前の1931年(昭和6年)に前年より約13万人も遊興客が増加(前年対比115%)している理由については説明がつかないなど不明な点も多い。

これらのデータから、遊廓のモダン化は遊興に対するハードルを下げ、遊廓をより近代的で大衆的な場所に変貌させる一面があったと考えられる。


おわりに

1932年(昭和7年)は中村遊廓における ”モダン化元年” であった。翌年の1933年(昭和8年)以降は更にモダン化が進み、面接所、応接室などと呼ばれる洋風ホールの出現、洋風の屋号と娼妓名の採用等、遊興のスタイルそのものを大きく変えた。また、後に同遊廓約140軒の業者を束ねた「旭廓貸座敷組合」は中村遊廓と娼妓をそれぞれ「旭楽園」「園妓制度」へと移行させる改革案を発表、遊廓と公娼を廃止し新たな遊興街の形を模索した。全国的にも珍しいこの制度は内務省や県当局を巻き込み検討が進んだ。

モダン化の断行、それは公娼制度の終焉を目前にした、遊廓の最後のあがきでもあった。戦争の足音が近づく中、遊廓史はこれほどにも大きな動きを見せていたのだ。

遊廓のモダン化は筆者としても大変思い入れが強く、こだわりを持って向き合いたいテーマのひとつである。noteでは今回【1932】編を公開するが、以降のモダン化の推移と結果、旧貸座敷内における洋風改装の遺構を撮影した写真など、改めて別の形で発表できるよう準備していきたいと考える。【完】


■参考資料
【1】『新愛知』新愛知新聞社 , 1934年(昭和9年)12月8日
【2】  稲川勝二郎『歓楽の名古屋』趣味春秋社 ,1937年(昭和12年)愛知県図書館蔵
【3】  島洋之助『百万・名古屋』名古屋文化協会 ,1932年(昭和7年)
【4】『新愛知』新愛知新聞社 ,1922年(大正11年)1月3日
【5】『名古屋新聞』名古屋新聞社 ,1936年(昭和11年)6月30日
1932年(昭和7年)7月8日
【6】『新愛知』新愛知新聞社 ,1932年(昭和7年)12月29日
【7】  谷川要史『郷土風景 2(4)』郷土風景社 ,1933年(昭和8年)4月 
【8】  三浦美底『旭廓物語』世間社 ,1921年(大正10年)
【9】『名古屋案内:附・郊外近県名勝案内』名古屋ガイド社 ,1934年(昭和9年)

■画像・写真
【トップ画像】【図1】稲川勝二郎『歓楽の名古屋』趣味春秋社,1937年(昭和12年)愛知県図書館蔵
【図2】『新愛知』新愛知新聞社 ,1930年(昭和5年)11月5日
【図3】『新愛知』新愛知新聞社 ,1930年(昭和5年)8月22日
【図4】『新愛知』新愛知新聞社 ,1930年(昭和5年)5月15日
【図5】『名古屋新聞』名古屋新聞社 ,1936年(昭和11年)6月30日
【図6】谷川要史『郷土風景 2(4)』郷土風景社 ,1933年(昭和8年)4月, 東海遊里史研究会 
【図7】 『中村一徳 外観』年代不明 ,個人蔵
【図8】『名古屋新聞』名古屋新聞社 ,1935年(昭和10年)10月13日
【図9 】『愛知県統計書』愛知県 ,1923年(大正11年)~1937年(昭和12年)から作成