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中村遊廓と遊里ヶ池~史料から読み解くその姿①


はじめに

名古屋市中村区道下町3丁目、日本赤十字社愛知医療センター名古屋第一病院(通称・中村日赤)の敷地内にはかつて、遊里ヶ池(ゆうりがいけ)という大池が存在した。その位置は1923年(大正12年)に新設された貸座敷免許地、通称・中村遊廓の西方隣接地にあたり【図1】、同遊廓の新設に併せ誕生した人工池であった。

当時名古屋市内にこのような大池は少なく、池畔一帯は観光地、イベント会場などとして市民に親しまれた。しかし様々なエピソードが残る一方で池の誕生から消滅まで詳細について検証されたものは少なく、根拠不明な言説、中には心霊現象のような話まで見聞きすることもある。本ブログでは筆者が収集した当時の新聞記事、刊行物の記述、公文書の記録、市街地図などの史料を紹介するとともに遊里ヶ池の姿とその歴史、変遷を綴っていきたい。

図1.中村遊廓の西方隣接地に造られた遊里ヶ池
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中村遊廓の新設〜遊里ヶ池の誕生

1919年(大正8年)4月18日、愛知県は県令第35号を発令。明治初期から名古屋市内の貸座敷免許地に指定されていた中区吾妻町・若松町・花園町・常盤町・富岡町・東角町・城代町・音羽町の8町域内、通称・旭廓の営業許可期限を1922年(大正11年)4月30日までとし、以降の名古屋市内における営業許可地を愛知郡中村大字日比津、大字則武(当時)及び名古屋市南区稲永新田(当時)の2か所とした【1】(旭廓の実質的な移転地は中村であった)。

しかし同時期に起きた岡崎市の貸座敷業者による裁判の影響から翌1920年(大正9年)2月25日に県令第29号が発令され営業許可期限を1923年(大正12年)3月31日までと変更した【図2】。名古屋市会及び旭廓貸座敷組合は愛知県と当局の独断による移転地決定のプロセスに問題があると反対意思を示したが、最終的にこれを受諾、県令に沿う形で移転計画が進んだ。

図2.通称・旭廓の営業期限は
1923年(大正12年)3月31日迄とされた
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移転が正式決定すると一帯の土地を所有していた名古屋土地株式会社と旭廓の貸座敷楼主達から組織された旭廓土地株式会社の間で新遊廓予定地 (以下予定地)31,620坪の土地売買契約が締結された。整地着手は1920年(大正9年)3月からであったという【3】。

予定地である名古屋西郊外の愛知郡大字則武、大字日比津一帯は農地として利用されており、水はけの悪い低湿地でもあった。予定地付近では表作として主に「米」を、裏作として「麦・いぐさ」を作っていた【4】。大正初期の絵葉書には名古屋土地株式会社が所有していた広大な土地の一部が写っている。後に遊廓地として指定される当時の中村一帯の様子を知ることのできる貴重な史料である【図3】。

図3.絵葉書・遊廓建設前の中村一帯の様子
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予定地の造成(地盤を固めるための埋め立て)には大量の土砂が必要であり、名古屋土地株式会社所有の遊廓西方隣接地一帯が採取地となった。そしてその掘削跡地に水を引き入れ造られたものが遊里ヶ池であった【図4】。

市外中村の新遊廓指定地の西方に遊里ヶ池と云ふ大きな池が出來て居り之れは新遊廓の埋立てをする土を得る爲に掘削したもので……

『名古屋新聞』1921年(大正10年)7月6日
図4.遊里ヶ池の全景が確認できる数少ない写真
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遊里ヶ池の規模と構造

◆遊里ヶ池の規模
戦前の新聞記事や刊行物には遊里ヶ池の大きさについて、下記のように複数の記述が確認できる。

「一萬五千坪ばかりの池が…」『名古屋新聞』【5】

「約一萬三千坪からの大池…」『新愛知』【6】

「池の面積約八千坪…」『都市公論』14(8)【7】

『名古屋第一赤十字病院40周年誌』によると、1977年(昭和52年)頃の名古屋第一赤十字病院(当時の病院名)の敷地は11,794.90坪【8】、『都市公論』では遊里ヶ池とその一帯の遊園地を含む土地が「一萬二千坪」、そのうち「池の面積約八千坪」とされている【7】。1923年(大正12年)に名古屋土地株式会社が作成した経営地の図面を確認すると、中村遊廓の区画(31,620坪)に対して1/2程度の規模にも見える広大な遊里ヶ池の様子が描かれている【図5】。しかし、この図面の測量がどこまで正確なものであったかは不明である。

諸々の史料から遊里ヶ池の規模は約8千坪〜約1万坪弱、サッカーコート4面程度度の広大なものであったと推測される(1面約2160坪)。

図5.遊廓地(約3万坪)に対して池の広大さがわかる【無断転載禁】

遊里ヶ池の水源は北方約2km(直線距離)の庄内川と思われる。市街地図など複数の地図にその流路が描かれているが【図1】正確なルートは不明である。また池水は南東側の小河川から遊廓地西部を通る形で約3km南方(直線距離)中川運河に流れ出ていた。

遊里ヶ池が造られた正確な時期については不明だが、1921年(大正10年)7月の新聞記事に水を引き入れた池の写真が掲載されており【図6】、遊廓開設の約2年前の段階で既に遊里ヶ池が完成していたことがわかる。

図6.写真中央にあるのは池の南東隅にあった貸ボート屋と思われる【無断転載禁】

関係者の回想録によると、遊里ヶ池から採取した土で盛られた遊廓地は周囲よりも高く鈍い勾配がつけられており、遊廓南側を東西に走る電車道(現在の太閤通)よりも3尺(約90cm)ほど高くなっていたという。また、このことにより浸水などの大きな被害を受けなかったとも語っている【9】。


観光地としての整備

新遊廓開設が近づく遊里ヶ池の周囲には木々が植栽され、池内では貸ボート屋、有料の釣り場が開業するなど観光地としての整備が進んでいた。また遊里ヶ池では鯉、鮒、モロコなどが釣れたが、前述の通り池には常に水が流入していたこともあり、特にモロコは泥臭さがなかったという【10】。

周囲には柳が植わつて風致なかなかに佳く殊に昨今は此処に二十五隻の貸ボートさへ浮かべられ清遊する者少なからず……

『名古屋新聞』1935年(昭和10年)7月6日

一万五千坪ばかりの池が出來た。若い柳や、ポプラの木がその池の端をめぐつてゐる。池の名は遊里ヶ池と名附けられた。池に映る灯と、絃歌の聲はいやが上にも人々の遊興氣分をそゝであらう。

『名古屋新聞』1935年(昭和10年)7月7日

新遊廓埋立の爲に堀つた後の廣い廣い水溜まりを「遊里ヶ池」と銘を打ち戀にもぢつて鯉を放ち、若干の運上を出せば粋里のほとりに釣りも出來るといふ段取、何から何迄抜け目なく、人を飽くまで釣るやうに出來ている

『新愛知』1923年(大正12年)3月12日

◆弁財天の勧請
遊廓が開設されて2年後の1925年(大正14年)、遊里ヶ池内に弁天島と竹生島と名付けられた島が新たに築造された【11】。
一帯の土地を所有していた名古屋土地株式会社の岸本常務、宮田相談役、山森支配人(当時)は竹生島(滋賀・琵琶湖内)へ赴いた上で手続きを行い、同年7月の弁天堂の新築を待って弁財天の勧請を行うことになった。岸本常務は『新愛知』の取材に下記のように語っている。

何分新開地であるから居住者の精神の糧となるべき信仰生活の対象として先づ以て神様なり佛様なりをおまつりしなければならると思つてゐた水に乏しい名古屋に一萬三千坪からの大池があるのにその儘何のの手入れもせず捨て置くのむうは土地繁栄の上から云つても市民諸君の娯楽慰安の上から云つても策の得たものではないと思つて東京の忍ばずの池になぞらへ池中に辨財天を勧請する事にしたのです……

『新愛知』1925年(大正14年)6月18日

また『名古屋案内』1925年(大正14年)【12】にも遊里ヶ池について同様の記述がある。弁財天が遊廓繁栄策、観光地化を目的に迎えられたものであったこと、弁天島は上野・不忍池を模して築造されたものであったことがわかる。『名古屋新聞』1935年(昭和10年)には当時の弁天島と弁天堂の姿が掲載されている【図7】。

近來遊廓繁栄策として、帝都上野不忍池に倣ひ、池の中に島を築き辨財天を祀り、池の周囲に各種演芸物等を催し、夏季納涼客の吸集に努めつゝあり。

長尾盛之助『名古屋案内』
図7.池内に浮かぶ弁天島と弁天堂【無断転載禁】

◆弁財天の来名
竹生島を出た弁財天の分身は1925年(大正14年)7月8日に汽車で名古屋駅へ到着。当日は市内の芸妓数十名、遊廓の関係者や多くの市民に迎えられるなど大賑わいの一日となった【図8】。

図8.弁財天の分身が名古屋に到着【無断転載禁】

◆遊里ヶ池、池内の島
遊里ヶ池の池内には”ひょうたん型”の島が築造された。東側のコブ(島)には「湖月」という料亭が、西側のコブ(島)には弁天堂が建てられていた【10】。
『土地台帳(日比津町字道下)』には、遊里ヶ池の範囲と池内の島が鉛筆書きで示されている。新聞記事どおりに、ふたつの島が並ぶように浮かび、西側の島には「弁天堂」、東側の島には「料理店」という字が書き込まれている【図9】。その他にも池畔には売店や遊芸場などが図示されており、遊里ヶ池が観光地として整備されていた様子がうかがえる。この図面を元に遊里ヶ池池内の様子を一部イラストで再現した【図10】。

図9.鉛筆書きで池の範囲や二つの島が図示されている【無断転載禁】
図10.上記から作成した略図 筆者作成
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池畔で開催されたイベント

新設された中村遊廓では1923年(大正12年)2月末から一部の貸座敷が営業を開始、4月には大部分の貸座敷が開業することになった【13】。以降、遊里ヶ池一帯は様々なイベント会場として度々使用され、市民が多く訪れた。以下はその記録の一部である。

◆遊廓移転祝賀会 
遊廓開業を祝い遊里ヶ池池畔を含む中村一帯で大きなイベントが開催された。

遊里ヶ池西畔で花火を間断無く打上げ廓外の空き地では相撲、仁輪加、獅子舞、手品、棒の手、手踊、萬歳其他の余興數々あり……

『新愛知』1923年(大正12年)5月21日

◆娼妓の記念運動会【図11】
上記同様、遊廓開業を記念した大運動会が池畔で開催された。

池の端の廣場に一千一百の娼妓と二百の仲居とを整列させ(中略)娼妓達は思ひ思ひの変装をしたり、いろいろの運動競技などを爲し楼主連は其の間に介在して大いにハシヤギ廻ると云ふ趣向である。

『名古屋新聞』1923年(大正12年)5月27日
図11.中村遊廓の記念運動会の様子【無断転載禁】

◆市民納涼花火大会【図12】
池畔で夏季に開催されていた花火大会は多くの市民が集まる大規模イベントであった。しかし毎年開催されたわけではなく、不定期なものであったようだ(開催された年・日付、開催回数は現在調査中である)。

初秋の遊里ヶ池池畔を彩る本社主催の納涼煙火大會は愈々今二十七日明二十八の両日盛大に開催せらる、(中略)打揚場所は遊里ヶ池の北端で……

『新愛知』1923年(大正12年)8月27日
図12.1923年(大正12年)初めて開催された
納涼花火大会【無断転載禁】

◆寒中水泳大会【図13】

日本遊泳協會男女選手三十名の寒中水泳大會は本社後援の下に十七日午後一時半から名古屋市西区中村遊里ヶ池において開催された……

『新愛知』大正15年1月18日
図13.池畔で開催された寒中水泳大会の様子
【無断転載禁】

◆中村魚釣り大会【図14】

中村遊里ヶ池に於ける魚釣り大會はいよいよ明二十三日に迫つた、何しろ運上はいらず僅十銭の會費さへ當日池の受付へ納め會員章を受け……

『新愛知』1927年(昭和2年)10月22日
図14.中村魚釣り大会の優勝旗【無断転載禁】

◆その他のイベント  
その他にも遊里ヶ池池畔ではオートバイ競争会、出初式、ボート競技大会など様々なイベントが開催され、多くの市民が訪れる場所となっていた。

(2)へ続く(後日公開)

遊里ヶ池にまつわる伝承、日赤病院建設と遊里ヶ池の消失、遊里ヶ池跡地の現在、他


※本ブログは2024年(令和6年)4月現在収集した資料、情報を基に作成したものです。新資料の入手、また事実誤認があった場合は随時更新していきます。


■参考資料
【1】  『愛知県公報』号外第14 ,愛知県 , 1919年(大正8年)4月18日
【2】  『愛知県公報』号外第33 ,愛知県 , 1920年(大正9年)2月25日
【3】  『中村区史』中村区制十五周年記念協賛会 , 1953年(昭和28年)
【4】  『則武開学百周年記念誌』名古屋市立則武小学校 , 1973年(昭和48年)
【5】  『名古屋新聞』名古屋新聞社 ,1921年(大正10年)7月7日
【6】  『新愛知』新愛知新聞社 ,1925年(大正14年)6月18日
【7】  『都市公論』14(8)都市研究会 , 1931年(昭和6年)
【8】  『名古屋第一赤十字病院40年誌』名古屋第一赤十字病院 ,
    1977年(昭和52年)
【9】  『中村区のあゆみ』中村区区政40周年記念誌編集委員会 ,
    1977年(昭和52年)
【10】『名古屋新聞』名古屋新聞社 ,1935年(昭和10年)10月15日
【11】『名古屋新聞』名古屋新聞社 ,1925年(大正14年)6月18日
【12】  長尾盛之助『名古屋案内』名古屋案内発行所 , 1925年(大正14年)
【13】『東海遊里史研究3』東海遊里史研究会 ,土星舎 , 2023年(令和5年)

■図・画像
【トップ画像】
吉田初三郎『名古屋市:鳥瞰圖』名古屋汎太平洋平和博覧會事務局 ,昭和12年(1937年)東海遊里史研究会 蔵
【図1】『大名古屋市街地圖』菊花堂蔵版 ,1923年(大正12年)
    東海遊里史研究会 蔵
【図2】『愛知県公報』号外第33 ,愛知県 , 1920年(大正9年)2月25日
【図3】  絵葉書
     『本社経営地(約十五万坪)ヨリ中村公園八幡社及油天神ヲ望ム』  
    東海遊里史研究会 蔵 
【図4】『新愛知』新愛知新聞社 ,1922年(大正11年)11月2日
【図5】『名古屋土地株式會社及附近経営地』名古屋土地株式会社 ,
    1923年(大正12年)名古屋市市政資料館 蔵
【図6】 『名古屋新聞』名古屋新聞社 ,1921年(大正10年)7月7日
【図7】 『名古屋新聞』名古屋新聞社 ,1935年(昭和10年)10月15日
【図8】 『名古屋新聞』名古屋新聞社 ,1925年(大正15年)7月9日
【図9】  『土地台帳(日比津町字道下)』年代不明 ,名古屋市市政資料館 蔵
【図10】  『土地台帳(日比津町字道下)』から著者作成
【図11】  『名古屋新聞』名古屋新聞社 ,1923年(大正12年)5月30日 
【図12】『新愛知』新愛知新聞社 ,1923年(大正12年)8月27日
【図13】『新愛知』新愛知新聞社 ,1926年(大正15年)1月18日
【図14】『新愛知』新愛知新聞社 ,1927年(昭和2年)10月22日