中村遊廓とビール会社~奇策縦横。闘心勃々③
今回紹介する2本のコラムでは各ビール会社が当時名古屋市内、そして中村遊廓内でどれほどの販売実績を持っていたのかについて触れられている。文中の統計数字は推定であり、正確性については担保できないが、当時の各ビール会社の状況を知る上で、大変貴重な記述であると考える。
名古屋市内と中村遊廓内でのシェア
コラム記事から読み取れること
今回紹介した2本のコラムの内容をまとめると次のようになる。
1927年(昭和2年)時、名古屋市内でのビール販売数はおよそ10万箱、但しこの本数には生ビールが含まれていない。下記の通り『麥酒読本』によると、木箱1箱には大瓶4打(4ダース・48本)を詰めていたというから【1】、瓶に換算すると480万本ということになる。
当時のビールは酵母を熱処理後、出荷する(瓶詰)。「非」生ビールが主流であった。一方、生ビールは酵母を熱処理せず濾過によって除去、樽詰で出荷されていた。当時の広告を見ると、確かに樽だ【図1】。
さらに、『麥酒読本』では次のように詳細が記されている。個人的にとても面白く、ビールだけで一本記事を書きたいくらいだ。
酵母を除去しない生ビールは発酵が進み味が落ちる。つまり鮮度が重要だ。この点で名古屋市内に工場【図2】を持っていたアサヒが優位だったということになる。
また、当時の大瓶は3合8勺(685mℓ)の容量だったとあるので【1】、ビール瓶換算で480万本だと名古屋市内で年間約3,288,000ℓものビールが消費されたことになる。1928年(昭和3年)『名古屋市統計書 第30回』によると、同年12月末の名古屋市の本籍人口は600,345人(ちなみに現住人口は949,966人)。計算してみたところ、20歳以上の本籍人口は340,042人なので【2】、仮に20歳以上を成人として計算した場合、1人あたり年間約9.7ℓの消費量となる。※統計書の年齢別人口の記載は本籍人口のみ。
ちなみに、キリンホールディングスのHPによると、2023年(令和5年)の日本国内の成人1人あたりの消費量は34.2ℓだったという。日本人のビール消費量はこれだけ増えているということだ。めちゃくちゃ面白い。
また、中村遊廓へはアサヒとカブト2社で年間3,000箱(ビール瓶換算14万4千本・生は別)が納入されたという。これは遊廓内の貸座敷だけでなく遊廓周辺の待合、飲食店などでの消費されたものも含まれていると考えられる。キリン、サクラの販売数は不明のため、2社の3,000箱だけで計算すると、中村遊廓で消費されるビールは市内販売数の僅か3%程度ということになる。意外と少ないな…と率直な感想を持ったわけだが、コラム内には「ああした場所柄へは、多少の犠牲は忍んでも売り込んでおかなければ損だ」とある。
当時名古屋市内では遊廓だけでなく、大須や広小路の飲食店、カフェーなども同等、それ以上の消費地であったと考えられるが、各社にとって遊廓は単なる一市場というだけでなく宣伝の場として、意地でも負けられない場所であったということなのだろう。
■市内でのビール販売数10万箱(生ビールを除く)の内訳をまとめると次のようになる※当時のアサヒにはサッポロブランドのビールも含まれる。
■カブト側の分析
5万箱(カブト)2.5万箱(アサヒ)
2万箱(キリン)0.5万箱(サクラ)
■アサヒ側の分析
4.5万箱(カブト)3万箱(アサヒ)
2万箱(キリン)0.5万箱(サクラ)
こう見てみると、やはり、地元企業のカブトビールは強い!。しかし、生ビールになると名古屋市内に工場を出したアサヒが圧倒的な優勢で、なんと70%ものシェアを獲得していたようだ。
■生ビールのシェア比
7(アサヒ):2(カブト):1(その他)
当時の新聞紙面には様々な広告が掲載されている【図3】
稲沢の操車ヤード(稲沢操車場)について
名古屋市(千種町)に工場を持つアサヒに対して、半田町(現・半田市)に工場のあったカブトは一旦、愛知県西方の稲沢町(現・稲沢市)の操車ヤードを経由して名古屋市内へ商品を輸送する必要があったという。ちなみに半田町から稲沢町の操車場へは直線距離で約40km、操車場から名古屋駅へは直線距離で約10kmとなるから、合計50km…かなりの距離だ。前項で記した通り、やはり新鮮なビールを届ける、という意味ではカブト他各社はかなり厳しかったのだろう。
この記事を書き始めるまでその存在を全く知らなかったのだが、稲沢操車場が竣工したのは1925年(大正14年)1月のこと、操車場とは鉄道貨物を受け入れ組成・入替を行う施設であるという。
同操車場の敷地面積(設計時)は東西5.6キロメートルにも及ぶ広大なもので【3】、神奈川・新鶴見操車場、大阪・吹田操車場とともに「日本三大操車場」のひとつであったという【4】。跡地に訪れてみたが、これほどまでの大規模施設が稲沢にあったのか……というのが正直な感想だ。とても勉強になる。
④に続く(近日公開)
④ではいよいよ中村遊廓内でのビール会社の戦略の詳細が明らかに。
めちゃくちゃ面白い。
■参考資料
【1】 高山謙治『麥酒読本』帝国出版協会 ,1936年(昭和11年)
【2】『名古屋市統計書 第30回』名古屋市 ,1938年(昭和3年)
【3】『稲沢市史』稲沢市,1968年(昭和43年)
【4】 現地解説プレートより
■図・画像
【トップ画像】『大日本麥酒株式会社三十年史』大日本麥酒株式会社,1936年(昭和11年)東海遊里史研究会蔵
【図1】『新愛知』新愛知新聞社,1928年(昭和3年)5月24日
【図2】『名古屋新聞』名古屋新聞社,1934年(昭和9年)4月29日
【図3】『新愛知』新愛知新聞社,1924年(大正13年)11月11日(左)・1928年(昭和3年)5月27日(右)
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