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稲永遊廓と遊興税〜公文書の記録から(後編)

記事前編では、稲永遊廓の概要と昭和12年の名古屋市の状況について情報を整理した。記事後半では稲永遊廓の遊興税申告書【1】(以下、申告書とする)の記載内容について、検証を進めていきたい。


申告書に書かれている内容は?

【図1-1】申告書(明細) 1ページ目
【図1-2】申告書(明細)合計欄
 【図1-3】申告書(明細)最終ページ

申告書(明細)は合計6ページで構成されている【図1-1~3】。遊興税納税組合代表O・T氏によって各楼の売り上げ、そして各税の申告額が筆書きで記されている。公文書の簿冊内には達筆過ぎて判読できないような文書も数多く存在するが、O・T氏は大変丁寧な字を記しており、その文字は私でも容易に読み取れるものであった。申告書に記載されている項目は次のとおりである。

【花代】登楼客が各楼に支払った遊興費用(花代)の金額。円、銭、一部厘の単位まで記載がある。

【線香本数】各楼で消費された線香本数。当時、遊廓では線香本数をひとつの単位とし、その合計本数で遊興時間と花代を決めていた。古くは線香が燃え尽きる時間を遊興時間としていたようだが、当時実際に火を付けることはなかったようだ。花代合計金額と線香本数から割り出すと、線香代は13銭5厘/本となっていたことがわかる。同年、名古屋市のもうひとつの遊廓、中村遊廓で使用されていた『娼妓稼業契約書』【2】によると、花代は10銭+雑費として3銭5厘、合計13銭5厘/本と取り決められていることから、名古屋市の両遊廓は同じ基準で運用されていたことになる。

【県税】円、銭まで記載がある。

【市附加税】南区長宛の申告書に同金額記載あり。円、銭まで記載がある。

【特別税】南区長宛の申告書に同金額記載あり。円、銭まで記載がある。

【遊興税合計】県税、市附加税、特別税を合計した「遊興税」の総額。

【登楼人員】各楼ごとの登楼人員が記載されている。合計人数は『汎太平洋平和博覧會ニ就テ』【3】で集計されている4月度の合計人数34,878人と一致している。

【楼名】全貸座敷55軒の楼名が記載されている。当時の『愛知県統計書』の記録では1937年(昭和12年)年末時点【4】の稲永遊廓の貸座敷数は55軒であり、統計書と申告書の軒数は一致している。

【氏名】楼主の氏名が記載されている。今回は不記載とした。

【作成日時】作成日付、代表O・T氏がこの申告書を5月14日に作成したことがわかる。

【宛先】名古屋市南区長 吉田勝正 宛
 
※その他、納税組合の代表O・T氏(男性の名前)に関する史料を探してみた。すると、戦前の職業別電話番号簿【5】に、稲永遊廓の「稲川楼」「新稲川楼」の代表者(楼主?)としてO・T氏の名前が記載されていた。申告書には両楼の代表者としてO・Y子氏(女性の名、両楼ともに同一人物である)の名がある。この人物がO・T氏の妻、あるいは親族であった可能性もあるが、その詳細を裏付けることはできなかった。

申告書の内訳

以下の画像【図2】は、申告書に記載された事項、数字をすべてエクセルシートに落とし込んだものである。各楼の代表者名(=楼主名?)は不記載とした。

【図2】申告書の内訳

遊興税申告書(昭和12年4 月分)の概要は以下のとおりである。

【貸座敷数合計】55軒
【花代合計】62,632円44銭
【線香本数合計】463,944本(13銭5厘/本で計算されている)
【県税合計】(1)1,073円86銭 
【市附加税合計】(2)3,732円27銭 
【特別税合計】(3)441円44銭 
【遊興税合計】(1)+(2)+(3) 5,247円57銭 
【登楼人員合計】34,878名

ここからわかることは、当時の遊廓では【県税】【市附加税】【特別税】の3つの税が計算され申告されていたこと、また遊興税は遊客が消費した花代合計の約8.4%となっていたことがわかった。

■参考(中村遊廓の遊興税)
 簿冊の中には同年同月の名古屋市・中村遊廓(「旭廓」が正式名称)の申告書も残されている【図3-1~2】。しかし、これらは稲永遊廓のものと若干フォーマットが異なり、稲永遊興が南区長宛だっだのに対し中村遊廓では市長宛に、また県税・市税それぞれ1枚づつの申告書となっている。市税の申告書は県税申告書のフォーマットを名古屋市長宛てに無理やり書き換え流用している。各楼ごとの明細は綴じられていない。

【図3-1】中村遊廓、県税の申告書
 県知事・田中廣太郎宛
【図3-2】中村遊廓、市税の申告書 
名古屋市長・大岩勇勇夫宛

旭廓貸座敷組合 
遊興税申告書 昭和12年4月度
【組合員合計】140人(貸座敷業者総数)
【花代合計】426,360円19銭5厘 
  —【芸妓】1,300円52銭5厘
  —【娼妓】425,059円67銭

愛知県知事 田中廣太郎 宛
【県税】6,962円82銭 

名古屋市長 大岩勇夫 宛
【市税】28,269円4銭
  ー
【市税】25,483円92銭 
  ー
【特別市税】2,785円12銭 

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現在の貨幣価値に換算してみる

次に、上記の金額を、当時の貨幣価値に換算してみたいと思う。
当時の貨幣価値を把握するには、学卒者の初任給額や消費物、飲食物の価格を参考にするとイメージがつきやすいかもしれない。しかし、当時と物価や状況も異なるため比較が容易ではない。そこで、岩瀬彰『「月給百円」サラリーマン 戦前日本の「平和」な生活』【6】の記述を参考にした。同書では

昭和初期の約十年間の物価を現在と比較する場合「およそ二千倍」という水準は今しばらく使える物差しだと思う。

と、当時の1円を現在の貨幣価値2,000円として計算するのがひとつの目安になるとしている。今回は、この考え方をお借りしたいと思う。

■花代合計
・稲永遊廓 昭和12年4月の花代合計 62,632円44銭
(現在の貨幣価値 約1億2千500万円)
・中村遊廓 昭和12年4月の花代合計 426,360円19銭5厘 
(現在の貨幣価値 約8億5千200万円)

■遊興税合計
・稲永遊廓 昭和12年4月の遊興税(県税+市附加税+特別税)
5,247円57銭 (現在の貨幣価値 約1千万円)
・中村遊廓 昭和12年4月の遊興税合計(県税+市附加税+特別税)
35,231円86銭(現在の貨幣価値 約7千万円)

一か月でこれほどの金額が消費され(花代)、遊興税が納税される仕組みになっていたのだ。今では考えられないシステムと金の動きがそこにはあった、これは驚きだ。

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【付記】稲永遊廓内の貸座敷営業状況

その他にも、4月度の納税申告書からは次のようなことがわかった

・登楼者数の多かった貸座敷(1,000人以上)
大福楼1,446人、長寿楼1,249人、新和楼1,026人、富士1,006人の4軒が1,000人を超えている。遊廓内同月の平均登楼者数は約634人/軒となっている。

・消費花代の多かった貸座敷
消費花代の上位5軒は次のとおり、長寿楼2,195円91銭、わたや1,958円4銭、大吉楼1,949円67銭、富士1,724円49銭、大吉別館1,527円93銭となった。遊廓内同月の平均消費花代は約1,139円/軒となっている。

昭和9年の『名古屋案内:附・郊外近県名勝案内』【7】によると、稲永遊廓の遊興費(花代)は1時間 1円乃至3円、泊り 3円乃至10円と記載されている。最も消費花代の多かった長寿楼の平均消費花代は1.8円/人、消費花代が2番目に多かったわたやの消費平均花代は2.5円/人である。つまり消費花代の多い長寿楼の1人あたりの単価は安く、客数の多さで消費花代を稼いだということになる。遊廓内の平均消費花代は1.8円で、最高が本家三吉の2.71円/人、最低がつるやの1.4円/人となっている。

消費花代の平均額からは、ごく短時間の遊興が中心であり、泊りなど長時間の遊興をする客はほとんどいなかったと読み取れる。

戦前の遊廓は最新文化の発信地とされることがよくあるが、果たしてそうだったのだろうか。この時代になると遊廓での遊興はショートタイム。かなり慌ただしいものであり、映画やドラマのように、文化が生まれるような悠長な場所ではなかったように思えるのだが。

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遊興税の徴収方法は?

ここまでわかったのは、遊廓内での遊興には遊興税という税金がかけられていたということ。また消費花代の約8.4%が遊興税となり、月締めで納税組合がこれらを集計し県、市に申告(納税)していたということである。では単純な疑問として遊客からはどうやって税を徴収していたのだろうか。

昭和初期の『全國遊廓案内』【8】『全國花街めぐり』【9】には次のような記述がある。その徴収方法は全国各地で様々であり、花代に含まれていた、あるいは花代と別途徴収する方法があったようだ(「……筈だ」などとあり、正確かどうかは若干不安な部分もあるが)。

【東京吉原遊廓】
大店でも四時間は五六圓、全夜全晝と云ふ事であり、小店の四時間は二三圓、全夜全晝で三四圓と云ふ處である。(中略)で、右は全部遊興税を含めての勘定であるから面倒はない。

【静岡市安倍川遊廓】
尚此の外に一時間と云ふのがあつて一圓六十五銭である。右は全部遊興税が合算してある筈だ。

【郡山東岡遊廓】
日没から十二時迄七圓、十二時から翌朝七時までが六圓と云ふ事に成つて居る。遊興税は一圓に就き金八銭の割。

【長崎稲佐遊廓】
徳治時間遊びはなく夕五時から暁六時迄と、八時から午後五時迄の仕切があつて、平均四圓位である。外に遊興税五十銭増である。

『全國遊廓案内』(昭和5年)

【飛田遊廓】(大阪)
花代一本十五銭、(中略)午前零時より同六時迄三十三本、午前六時より娼妓迄十八本、正午より午後六時迄三十本。遊興税は花代一圓に対して三銭。

【東遊廓】(愛知)
娼妓の方は一時間十本で一本は十六銭一厘 遊興税を含む時間制度で…

『全國花街めぐり』(昭和4年)

同県の岡崎市東遊廓では遊興税が花代に含まれていた。そうなると稲永遊廓も同様の精算方法を採用していた可能性は高いのではないか。花代から別途税を計算する必要なく、運用としてはこれが一番シンプルだ。

おわりに~史料の分析は現在も継続中!

今回、遊興税を調べる中で多くの史料にアクセスすることができた。当時の新聞記事、公文書、公報などの公的文書から遊興税の成り立ちやエピソード、名古屋市で特別税として市税が賦課されたこと、後に愛知県の県税として遊興税が新設されたことなどその制度と仕組みが朧気ながらも見えてきた。一例をあげると、

・名古屋市では大正8年5月25日「特別市税遊興税」として新設され、6月1日から施行される予定だった【図4】が、不備があり条例改正を待って6月15日施行となったこと【図5】。

【図4】大正9年、名古屋市で遊興税が新設される
【図5】名古屋市の遊興税条例は
6月15日に施行された

・愛知県では大正14年3月20日に県税(雑税)として遊興税が新設された【図6】。以降、市税は県税の附加税となったこと。

・申告書に記載にある「特別税」は正確には「都市計画特別税」。こちらも県税の附加税として一定の賦課率が定められていたこと。

【図6】大正14年県税として遊興税が新設


・県税、市税、特別税の賦課率はどの規則、規定を基に決められていたのか?
・遊興税はいつまで存在していたのか?
・稲永遊廓納税組合の申告書でどうしてもわからなかったこと.…

これらは現在も調査中である。
来年2025年は更に情報を含め「遊興税申告書・完全版」として原稿をまとめてみたいと思う。このテーマから学べることは多い。

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主な参考文献

【1】 「稲永遊廓遊興税納税組合 賦課税申告ニ関スル件」 『A-財S249 完結年度 昭和13年度 昭和十二年度 遊興税賦課史料綴』編冊期間 S12・4・6~ S13・4・11 
局課名 財政局財政課 作成局課名 庶務部 財務課 名古屋市市政資料館
【2】『娼妓稼業契約書』年代不明
【3】『名古屋汎太平洋平和博覧会ニ就テ』古屋汎太平洋平和博覽會事務局,昭和12年島洋之助『百萬・名古屋』名古屋文化協会,昭和7年
【4】『愛知県統計書 昭和12年 第5編』愛知県,昭和11-18年
【5】『電話番號簿 昭和11年6月1日現在  愛知縣 上巻』名古屋逓信局,昭和12年
【6】 岩瀬彰『「月給百円」サラリーマン 戦前日本の「平和」な生活』講談社,平成18年
【7】『名古屋案内:附・郊外近県名勝案内』名古屋ガイド社,昭和9年
【8】『全國遊廓案内』日本遊覧社,昭和5年
【9】 松川二郎『全國花街めぐり』誠文堂,昭和4年

図・写真
【図1-1~3】「稲永遊廓遊興税納税組合 賦課税申告ニ関スル件」
『A-財S249 完結年度 昭和13年度 昭和十二年度 遊興税賦課史料綴』
編冊期間 S12・4・6~ S13・4・11 局課名 財政局財政課 作成局課名 庶務部 財務課 名古屋市市政資料館
【図2】筆者作成
【図3-1~2】「旭廓貸座敷組合遊興税」
『A-財S249 完結年度 昭和13年度 昭和十二年度 遊興税賦課史料綴』
編冊期間 S12・4・6~ S13・4・11 局課名 財政局財政課 作成局課名 庶務部 財務課 名古屋市市政資料館
【図4】『名古屋市公報』名古屋市,大正9年5月25日
【図5】『名古屋新聞』大正9年5月28日
【図6】『愛知県公報』愛知県,大正14年3月20日



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