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悪口の因果応報性

謎を解き明かす。

問い:
悪口は、「人の普遍的な状態」を含む言葉か。

そもそも悪口とは、人の欠点を指す言葉であるから、「人」に広く当てはまることに驚きはない。もし、人間性に言及している部分があるのなら、それを知りたい。

目的:
人間性に当てはまるか。

バカ、アホ、間抜けなど 編

単純な言葉。そもそも該当しない人間が存在しない。
補うことのできない人間性を表している。

他者との比較 編

§1

賢い者と愚かな者は、どうやって区別されるのか。
比較によってである。

他者と比較することで、初めて、賢者と愚者に分かれる。しかし、比較の目的は、賢者と愚者を分けることに無い。

比較は、不定形なモノを把握する為の行動に過ぎない。そこで愚かさを露わにすることは、形を照らすことにつながるため決して愚かなことではない。

しかし、望んでするものではない。できれば、望んでないことで愚かさを露呈するのは控えたいものだ。それが分かれば苦労はないのだが。

問い:
1 望んでいないことで愚かさを露呈するのを避ける方法。
2 望んでいないことで愚かさを露呈するとは何なのか。

§2

例示1 - 2chコピペ

社会人は1日に10時間働して1時間休憩して通勤に二時間かかり睡眠時間を4時間取る。そうすると、自由にできる時間は4時間程度だ。
ニートは睡眠時間を7時間取って時間は17時間ある。
実に社会人の4倍以上だ。40までニートを貫いた奴は勝ち組みだよ。

大学卒業からだとしても、社会人の72年分の自由にできる時間を使ってるんだから。だが、ペナルティも4倍だ。40過ぎてニートやってたなら、社会では90過ぎの爺さんと同じ扱い。
希望なんてあるわけない。むしろ、寿命だ。長生きした方だろ?

2年なら24で若いと思いがちだが、30の転職者と同レベルの扱いだ。決して甘い物じゃない。時間は無限にあると錯覚しがちだが、一般人の4倍以上の速さで浪費してる。

ニートが明日の夜寝る頃には、一週間分の時間を失ってるということだ。

こんなコピペあったのか。後、正直これ意味わからん。見方を変えると、ニートが明日の夜寝る頃には、社会人が一週間分の時間を失ってるともいえるんじゃないのか。

(ニートの自由時間)-(社会人の自由時間)= 埋められない差

 17 - 4 = 13 (実務以外に当たる時間)

1週間後には、 13 * 7 = 91 時間。 約4日の差になる。

といっても、実務に携わる社会人が劣るという意味ではない。

社会人は、ニートに対して、40の時点で90ぐらいの実務能力が身につく。(コピペの計算だと)

まぁ、どちらの能力にも限りはあるだろうけど。

遊び人が賢者に
仮に、家で勉強していたら、1日で社会人の4日分もの知識を身に付けることになる。

40の時点で90年生きたぐらいの知識を付けてたら賢者じゃん。

「社会では90過ぎの爺さんと同じ扱い」の意味もだいぶ変わってくるか。

このコピペの良いところは、「釈迦に説法」になる状況を説明付けられる所だ。今までどういう状況がこれを産むのか想像すらできずにいたが、これで説明を付けられるのかと感心した。

思考に時間を費やした場合、それぐらいの差が生まれることもあるんだ。

問い:社会はどのように前進するか。40代なのにも関わらず90代の知識を持つ者は、社会を先へ進める為に必要か。又、社会への効果は。

§3 差別

比較で悪口ってできる?

比較の悪口は、何かしら優れていることを明らかにすることで、優劣付けるものだと思われる。

§3 - 2 差別は、人間性による矛盾 

比較からくる差別

 人間性に当てはめて考えた時、その差は、埋められるものとして扱われるが、現実として埋められない差、それが比較を用いた悪口になる。

 更新することの出来る現実的差別と、肌の色や人種などの更新することのできない実行不可能な非現実的差別に別れる。共通点は、事実の指摘に関わらず、自らの人間性に矛盾を抱えていることを説明する所だ。つまり、他人の過ち(?)は攻めるが、自分の過ちを受け入れることはない。



理性(?)により導かれる真に優れた思想を語ることは出来ない。
個人と言うよりも、社会的矛盾かもしれない。



人の不完全性?それも、人の頼りにする物の不完全性を表している。

人の不完全性からくる、人の頼りにする不完全性。

つまり、人の理性に差はないかもしれないが、現実として、人の理性は、まだ一つのまとまりとして形になっていない。


いわゆる矛盾に該当するのではないか。

理性には矛盾があり、多くの者がそこから抜け出すに至っていない。

それが差別を生む。

§4 

差別は、本当に素晴らしい物とは何かを『分からない、判断がつかない、理解が及ばない』点に依存する。

周知の言論から事例を挙げると、自己責任論など。
自己責任論は、差別に該当するかもしれないし、その本質は、学歴差別と変わらない。

そもそも、自己責任論にしても、他の○○論にしても、大体の場合は、それを訴える者自身にとっての理想であって、現実的ではない。頭の中お花畑と揶揄される者と同じ。それ、現実の世界の話ではないので。

共通するのは、子供の様に駄々をこねる所だ。

気になるのは、そんな風に駄々をこねて、何か得をすることでもあるのだろうか。当然あるんだろうね。得でもなければ、わざわざそんな主張しないだろう。しかし、一体どんな得があるんだろう。


現実的ではないものを反映したコメントがある。

「素晴らしい意見ですね。
今すぐ論文を学会で発表されてはいかがでしょうか?」

多くの甘えた人間がこの言葉の前に消え去っていった。

これは、2011年以前のネットではそこそこ使われてた台詞だ。

インターネットが商業主義に侵され始めると、この台詞は使用されなくなった。金の前には、事の真偽などどうでもいいからだ。

つまり、商業主義的な人間の流入と増加に伴い、元々いたネットの住民たちの哲学的な思考は、商業主義的な面で価値が薄いため衰退していった。

こう言うやり取りを繰り返してると、学会厨、論文厨などと揶揄する者がちらほら現れる。

これに対して、「占い厨は、他人のことに口を出さず自分の運勢でも占ってろや」

同じ言葉で返される一方的な言葉 編 

自分の思い通りにならないと怒る。ただし、守らないと社会的に罰せられる場合もあるので侮れない。 悪口?

行動を強制するような言葉だから命令かもしれない。

文の中で規則を作るのが特徴。極論に達すると即死する型でもある。

例示1
「止めろと言ったら止めろ」
→「お前は生きるのを止めろ」等で停滞が見られる。

まとめ 悪口は、矛盾の偏った見方

問い:悪口は、人の普遍的な状態を含む言葉か。

回答:

人の持つ理性に差はないかもしれないが、現実として、人の理性は、まだ一つのまとまりとして形になっていない。人は、未だ多くの矛盾を抱えている。

それは、感覚には、矛盾があり、多くの者が感覚から抜け出し理性を使うに至っていないからだ。自己の感覚を良しとしている者は、自己の満足を求め、己の矛盾に気付かない。

つまり、人に従来備わる感覚器官の個々人の問題と、感覚器官に由来する、人類の欠点である、

悪口は、本当に素晴らしい物とは何か、まだ人には分からない、判断がつかない、理解が及ばない、といった所からきている。

従って、悪口は、結果的に人の矛盾を表す言葉になりやすい。
悪口は、自己言及性の一種か、代表的な例かもしれない。

日本大百科全書(ニッポニカ)「自己言及性」の解説
 しかしジャンルや行為の種類を問わず、人が自らについて語る存在である限り、自己言及性は人間の基本的な条件である。人は、自己に言及し、自己を解釈していくなかで世界を認識していくほかないからである。1970年代以降、生命、人格、社会組織など多様な領域が、再帰的に構造を選択し、要素を産出していく自己維持的システムとみなされるようになると、自己言及性は、あらためて自己組織化の問題ととともに考えられつつある。
(上記の自己言及性リンクから抜粋)

[倉数 茂]

『ダグラス・R・ホフスタッター著、野崎昭弘・はやしはじめ・柳瀬尚紀訳『ゲーデル、エッシャー、バッハ――あるいは不思議の環』(1985・白揚社)』

曖昧であり、はっきりしない理論である。

悪口は、自分に返ってくるというより、偏ったモノの見方をした場合、どちらか一方が悪く見える


余談1

昔の悪口って調べるのが難しいらしい。口にするのもはばかられる、社会通念上許されない。つまり、公私ともに文章で使わることは限りなく少ない。従って、記録に残らない。

余談2

袋小路に追い詰められた人間は、そこから脱出しようとするだろう。

そうなるまで人を追い詰めることが出来るのであれば、そこからさらに、脱出できないようにすることも可能だろう。

人をどうすることもできない袋小路に追い詰めることが出来るとしたら、そこから脱出できないようにすることだってできる。

それは、何も悪い事ばかりではない。

袋小路に入った時点で停滞なんだ。

早いとこそのことに気づかせるのも善徳だよ。

その道は、先に進めないんだ。

先に進めないのなら、引き返すしかないんだ。

悪い道に進めば悪い結果しか待っていない。

でも誰もが突き進む。

壁を目にするまで進むしかないわけだから。

くそっ。

だね。

余談3

そんな奴になりたかったのか?