当為について-theory
当為を目指すことは良い事だ。
しかし、それを口に出すと、途端に悪者になる。
それは、その物が不完全だからだ。批判の対象になりえるし、善良たる人々は、不完全なものが世に広まることを抑制しなければならない。
その様は、自身の中に生まれた不出来な考えを打ち消すように鎮圧される。
そして、社会的に反対の価値(負の価値)を持った物体だけが残る。
当為を目指すことは良い事だ。不完全なものが世に広まることを抑制することも良い事だ。
しかし、だからといって、不完全なものを世に公表することは悪になるのだろうか。
社会は、常にセオリーに悩まされている。
そもそも人の論理には明らかな欠陥がある。当為を導きだせないことからもそれが分かる。
ようは、欠陥を理解してないことが悪になる。
自分の論の欠陥を理解できないと悪い頭脳になり、
認知論的に人の論理には欠陥があることを理解できないと悪い頭脳になり、
他の何かの論理に欠陥があることを理解できないとやっぱり悪い頭脳になる。
一概にして言えるのは、悪いということだけだ。
誰しもが悪い世の中で一概に言えることは、悪いということであり、それ以外にはないのが道理であるから、あれが悪い、これが悪い、それが悪い、やれ悪い、と世の人々が口をそろえて唱える様は、真に妙法であるな。
世は、人は、健やかでいて清らかでありながら誠に奇怪である。
清浄な奇怪さ、卑しさ、卑屈さ、みじめさ、醜さ、醜悪さ、苦しさ、辛さ、苦さ、その他もろもろ。
意外にも、人は真に純真な生き物なのではないか。
そして、種々の生命が蔓延るこの世界に於いて、あまりにも純潔であり過ぎるだ。
人を純潔の化身と呼ぼう。完全なる人は純真・純潔なのだろうから。
しかし、この世界の純真・純潔は、狂ってると言わざるを得ないな。
それは、到達点なのか? それとも、出発点なのか?
どこにあるのだろうか。
純真/純潔は、何を目指すのだろう。
何が言いたいのか分からないと思うが、私も何を言いたいのかさっぱりわからない。
それこそ妙法だ。それが言えたらそれが当為だろう。