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漫画には、二種類ある。

一つは、漫画と呼べるもの。

もう一つは、漫画の教科書として役立つ本。ただし、こちらも漫画と呼ばれる。

本質を突いた物だけを漫画と呼ぶ。それは、学問的な価値があるか否かだ。

対して、教科書は、漫画の描き方に焦点を当て、物語を嵌めて書かれたものである。

不思議なことに、消費者は、金のない時代にあって、漫画の教科書としての役割を持つ漫画を好む。

これは、本質に繋がらない為の効果であるように思う。

本質的な主張のないものは、性質上、何とでも言えるはずなので、宣伝しやすく、売りやすいのではないか。

私は2つの観点からこのことについて考えることが出来る。

金のない時代の消費者は、金になるものをかぎつける点と、本質は、消費できるものではない点。

弱者は、金になる物をかぎつける能力を上げなければ生きていけないのは想像にがたくない。だから、そこに罠をしかける。簡単な話だ。そうしてめでたくカモとなる。

本質は、真に価値のある物である。

本当に価値ある物を消費することは出来ない。

本当に価値ある物とは、完成された物のことである。

完成されたものに、価値の揺らぎはない。

真に価値ある完成されたものは、皆の手に渡ることで価値を失いそれ故、価値に揺らぎはない。つまり、資産的な価値は無い。

真に価値ある完成された信念に価値は無い。故に揺らぐこともない。

価値とは何か。考える必要しかない。


資本主義において、完成された物は売れない。

いや、資本主義でなくとも完成された物は売れない。

売る物でも買うものでもなく、所有してしかるべきものだからだ。

所有してしかるべきものを売れるはずはない。魂を売るとはこのことだ。


駄目だ上手く言えない。

私のメモには、資本主義は、物事を完成させないと書いてある。

これは正しい。完成させるとかえって売れなくなる。

しかし、この記述は、資本主義と言う枠から導き出されたものだ。


上記はどうでもいい。まぁ、ひとまずね。


本題に移る。

私は今日あることに気が付いた。

殺人はとても重要な問題だ。社会の本質的な問題だといってもいい。

もちろんそんなことは知っている。

しかし、私の知りえたことはそうではない。

命の保証なくして、価値は成り立たないのではないか。

裁判官を例にとってみよう。

殺されてしまう裁判官など役に立つだろうか。

例えば、裁判の結果を伝える前に殺されてしまうと、とても困ることになる。裁判の結果を伝えられないということは、執行もできないということだ。

裁判官とその他を分ける最大の格差、それは命の保証だ。

より分かりやすくするために、この場合、犯罪者との対比とする。

裁判官と犯罪者の明暗を分けるのは、命の保証の差に他ならない。

裁判官は、殺されないという前提の上に成り立っている。

考えても見ろ、仮に裁判官が自由に犯罪者に殺されてしまうとしたら、一体、どちらが裁判官だという話になる。

最高だ!

冗談のようにもみえるだろうけど、これは決して荒唐無稽な話ではない。

古代ギリシャ人は、ムキムキだった。

奴隷に働かせて、自分たちは思考の思索にふけるほどムキムキであり、豊かだった。

古代ギリシャ人は、死刑執行人であり、裁判官であったわけだ。


これを現代に照らし合わせて考えてみるとどうだ。

アメリカ人はムキムキだ。そして、ミサイルを撃ってくるぞ。

彼らは死刑執行人であると同時に裁判官でもある。

自称は世界の警察だが。

狂ってるように見えて、本当に狂っている。


裁判官がいたとして、犯罪者が裁判官を殺せてしまうとしたら、何度裁判を重ねようと変わらず裁判官が殺されるだろう。つまり、1回目の裁判官が殺され、2二人目の裁判官が現れ殺され……と続いていく。

そうした状態の内にあっては、一体、どちらが裁判官か、と言う話になる。即ち、命の保証の上に成り立つ職業であるということだ。

正義や善の上に成り立つものではない。命の保証だ。

命の保証がなくなれば、裁判官、警察官などという肩書は、何の役にもたたない。むしろ、なることで殺されてしまうのならば、肩書は、死刑囚が相応しい。

殺されることがないという命の保証こそが犯罪者との明暗を分ける。

従って、想像の淵から浮かび上がってくる裁判官の姿は、自然と、誅されることのないムキムキな姿になる。

死刑執行人の誕生だ。

社会的な契約を結ぶためには、漫画等でネタになる悪魔との契約の様に、死刑執行人としてのマッチョな性格を持つ者との契約が存在しなくてはならない。

従って、社会の契約において重要なのは、命の保証を担う死刑執行人である。裁判官が死刑を宣告しても、それを実行する者がいなければ何の効力も持たない。

死刑執行人の存在こそが物事の価値を決める。


裁判官、警察官などと言う肩書も、死刑執行人の隠れ蓑に過ぎない。

社会の本質は、命の保障であり、死刑執行人の為に存在する。

そして真に力を持つのは死刑執行の役割を持つものである。

つまり、社会の本質は、力である。