これからの時代は、生命の反応でカテゴリー分け

虫けら

家畜

植物

虫けらは、太古と呼称。虫けらでは印象が悪い。それに先輩だからね。

家畜は? 家畜の生命の反応ってどんなの? 家畜は人が生まれてから。近代だから太古からしたら後輩か。

植物は? 

あともう一つは忘れた。


流れで見ると、植物、太古、その下に家畜?なのか。


大まかに分けると生命の反応はこの4つ以外にないのでは。

「人」の生命の反応をみたことがない。少なくとも認識していない。ということは、認識できていないということだ。つまり、認識するような出来事に出会ったことがない。

しいて言うなら、効率と大げさな比較、果てだな。


人生とはいうが、「太古」「家畜」「植物」これらの生命の反応から逸脱した人生を私は知らない。

肯定できないのは、キリストとかブッダとか宗教的な指導者の変わり種か。

考えられるのは、植物だな。宗教的な指導者は植物的だ。

いまある生命の反応カテゴリーの中で。ただし、今の私の直観。


これからは、生物ではなく、生命の反応で分ける。


家畜の呼称は、ひとまず後輩にしよう。正確ではないが。

植物は、なんだろう。人の支配者ともいえるし、取るに足らぬ存在だともいえる。

まぁ、考えてみたら、植物にも、人に愛されるもの、嫌われるもの、取るに足らぬもの等、種類がある。


そうか、人を軸にして考えたら、好き嫌いがあるんだよな。そう考えたら、生命の反応は、好き嫌いで分けられる。そうなると結局、人としての生命の反応があるので従来のカテゴリーに逆戻りする。

いや、多分違う。生命の反応として、根幹に比較がある。だからそう見えるというだけに違いない。


虫けらにしても家畜にしても植物にしても、好きなモノを選ぶぐらいできるだろう。嫌いなモノを避けるぐらいするだろう。比較すれば、良い物と悪いものに分かれる。その中から良い物を選ぶぐらいできるだろう。

そう考えると、あえて悪い物を選ぶ。つまり、悪い物を悪い物を悪いとしっていながら抜き出す。そこに知性を感じる。

だが、虫けらには身体的に必要ないだけかもしれないし、良く考えたら、虫も、他の生物が嫌がるような毒素を持っていたりするからな。臭いとかも。つまり、悪い物に利点を見出しているわけだから、取り上げて知的でもないか。

それでは、あえて選ぶ必要のないものを選ぶのはどうだろう。

つまり、必要を認知して抜き出す。そこに知性を感じる。

人間は、役に立たない物もとっておく。何かに使えると思って。ゴミをため込むその姿はまさにごみごみ。

うむ、ゴミでも取っておく姿を知的とは言えない気がするな……。

しいていうなら、「もったいない」か。

それが役に立つものなのか、役に立たないものなのかの判断が一番鈍いのって、もしかして人間じゃないのか?

虫けら、家畜、植物の全てに負けてそう。

まぁ、人間は長く生きるし、結局は、身体的な問題の気がするな。


しかし、虫けらや家畜の目線で物を語るなと言える以上、?軽視できない?

植物の目線で物を語るとは何だろう?なんだか少し高尚な感じがする。


貴方の性格は、太古です。

貴方の性格は、近代的です。

貴方の性格は、そこに根を張るです。


分かんなくなってきた。