夢と現のあわい。
日本映画はあまり観ないんだけど、ふと思い立って、ある日曜の朝、梅田に出かけた。
■ ツィゴイネルワイゼン | 鈴木清順 | 1980 | ATG
1980年は、ぼくの中ではジョンレノンが撃たれた年だ。
もちろん『けんかえれじぃ』の鈴木清順の名前は知っているし、当時けっこう話題になったことも覚えているけれど、この映画を観るのは初めて。早起きしてわざわざ観にいく気になったのは、この『ツィゴイネルワイゼン』の原作が、内田百閒の「サラサーテの盤」だったからだ。
2年ほど前に読んだその短篇は、とても印象的で、ずっと心に残っていた。
そのときに、こんなことを書いている。
■ サラサーテの盤 | 内田百間 | 六興出版 | 19820225/2刷
不気味な短編集、「阿房列車」や「ノラや」の軽妙な随筆とはぜんぜん違ってた。
薄明かりの土間に立つ、死んだ友人の後妻おふさと姿の見えないその子供きみ子。
夫の遺品を返してほしいと、いつも同じ時刻にそっと訪ねてきて、最後にはサラサーテ自奏の「チゴイネルヴイゼン」の十吋盤を返してくれと懇願するのだ。幽霊ならばいっそ納得もいくが、生きた人間のその薄気味悪さには鳥肌が立つ。
映画「ツィゴイネルワイゼン 」の原作となったこの「サラサーテの盤」をはじめとする、百間先生の幻影を描いた九つの短編。
サラサーテの盤
とほぼえ
枇杷の葉
雲の脚
ゆふべの雲
由比驛
すきま風
神楽坂の虎
亀鳴くや
實説艸平記
浮遊感あふれる幻想文学の世界、いっそ「怪談」と言ってもいいかもしれない。
それもただ怖いのではなく、絶妙な塩梅でブレンドされるこの人独特のダークなユーモアと会話文によって、気味の悪さがどんどん増幅される。
内田百間のもうひとつのの持ち味が、こんなところにあるとは知らなかった。
夢と現のあわい。
映画での脚色はかなり増幅されて、原作よりも濃厚な味わいになってるが、鈴木清順の映像も、まさにその「夢と現のあわい」を、不気味にそして耽美的に描こうとしているように思える。
歌舞伎のような、能のような。
先生の青地に藤田敏八、その妻周子に大楠(安田)道代、死んだ友人中砂に原田芳雄、中砂の妻その、そして疫病で亡くなったそのの後妻になる芸者小稲が大谷直子の二役。
中砂の妻園と芸者小稲を演じる大谷直子が秀逸だ。
芸者小稲が自殺した弟の骨のことを話す(のちの話の伏線にもなっている)シーンや、園がすき焼きに入れる蒟蒻を手でちぎりながら正気を失っていくシーンの不気味さ。
この世とあの世の結界になっている鎌倉の釈迦堂の切り通しの暗闇から、あらわれる小稲あるいは亡くなったその(そのときにはもはやどちらがどちらかがわからなくなっている)が、あなたは向こう側こそ瞑府だと思っているかもしれないけれど、と思いだしたように青地に囁くときのその表情。
鈴木清順は、映画のことをよく知っている。
小説を映画にするときのそのやりかたで、映画監督の力量が計れるんじゃないかとひそかに思っているが、彼のスタイルは申し分ない。
百閒の秀作のキモをしっかりつかんで、脚本はもちろんのこと、キャスティングから美術までを自分の表現として請け負っている。
偏屈な百閒先生からしたら、演出過多で気に入らないかもしれないけれど、清順さんのいかにも映画的な解釈も、悪くない。
まあどちらもさすがの手練れだね。