「まるい空間」─ 体感する、ということ
以前舞台で共演したことのある知人の踊りを久しぶりに観て、思ったことがある。
彼女の動きはまるみを帯びている、ということ。まるい空間を作る、踊り。
包み込む、というのとはまた少し違う。それは伸ばした手の、その指の先にある空気がふわりと押し出されるような。揺れる柔らかな布が空気を含んで、ふっと膨らんでいくような。そしてするすると、彼女を取り巻くエネルギーとも言える空気が、動きと共に空間に混ぜ込まれていく。
彼女の動きは空間を切らない。ぴんと張り詰めたような、糸を張ったような緊張感に固唾を飲み、統制された身体に感動することはあるけれど、それとはまた違った感銘を受けた。
糸を張るでもなく、タイプこそ異なるものの空間を「切って」しまいがちな私とは違うなと、羨ましく思う。
柔らかな布が、風に舞う。
ときに視界を横切るように。
ときに大きく帆を張るように。
ときにぴたりと動きを止めて。
かと思えば突然、
自身の重力を思い出したかのように
すとんと落ちて。
次の瞬間には傾斜を見つけた水のごとく、
嬉々としてすーっと地を流れていく。
そんな風に私も動いてみたい。
今、(便宜的にアートも含む広義での)エンターテイメントは動画という画面の中で拡まり、楽しむことが主流のように思う。スマートフォンの進化で見るのも撮るのも手軽になり、もちろん私もその恩恵をかなり受けている。
けれど、こういった「人」が放つエネルギーのようなものを感じる感覚は、それを養うのは、やはり実際に生で目にすることでしか得られないものなのではないかと思う(なんだかんだでアナログ人間)。
広く知ってもらうための動画が、ツールとしてではなくコンテンツとして完結してしまうのは、私個人としては少し寂しい。
それ自体がコンテンツとして完成しているものもあるので、画面の向こうにあるものを求める、ということを一概に否定したいのではなくて、それは機会であり、その先に自分の目で、感覚で、体感していくということに繋がる世界であってほしい。音声・音楽でも写真でも動画でも、もちろん言葉でも、行き着く先は想像力を掻き立てるものでありたいし、そういうものを作りたい。
思いやりも、想像力だ。それは結果的に創造力でもあると思う。そうして想像力(または創造力)を養うことで、「人」というものを感じることで、世界は少しだけやさしくなるのではないだろうか。
なんて大きなことを言ってしまったけれど、ステージに立つ人間としてはやっぱり生で観たいし観てほしいなあと思う、というだけのことでもある。そこに時間とお金をかけていただくのであれば、自分を削ってでも全力で、責任を持って、その場所にいたいと思うのでした。
書きながら、流れ流れて行き着いた帰結でしたが、自分への戒めとしてもう一度心に留めておこうと思います。