シンプルであること
最近、詩の投稿が滞っております。
少し思うところがあって、作風や表現方法、言葉の選び方を練り直ししつつ、やや意図的に、書いた載せたの直通運転をやめて各駅停車の運行をしています。当然、目的地に辿り着くまでに時間がかかるようになってしまって、けれどこういう時間も必要だと焦れる自分に言い聞かせながら、ぽつぽつと書き続けています。
作風の練り直し、と書きましたが、自分を完全に捨てることはもちろんできないし、そうするつもりがある訳ではないのです。
芯にあるものをもう一度見つめながら、自分を知り、湧き上がる感情を一度客観的に見つめることで選択する言葉を深める。そして無駄を極力省く。これまでとはアプローチを変えるように意識している、そういう変化を目指して四苦八苦。
この作業、わりときついときもあります。自分の底の浅さを痛感するようで、容易に落ち込める。ただ、日常の中で起こる現実を、感情を、言葉に落とし込もうとする起点(としての自分)、いわゆる感性には、すぐに大きく変化をもたらすことはできない。そこにどうしようもなく「私」という個が存在することを、認められるくらいには大人になってしまったので、やはり何かしらを表現しようとするならば自分と向き合うことからは逃げられないなと痛感しています。言葉然り、踊り然り。
私自身もよく言葉にすることではありますが、シンプルであることはとても難しい。人間は、余計な装飾をたくさんしたくなるものです。こと私のように小心者だと、自分をどう見せようかということをいつも探ってしまったり、「それらしく」したいという固定観念が邪魔をして「ほんとう」が見えなくなる。結果、婉曲とは違った意味でのオブラートに、自分自身も言葉も包むようになる。
これはきっと、器用貧乏の受難でもある。器用は、この場合あえてプラスの意味ではありません。あれもこれもある程度やってしまうから、そのある程度が本来必要のない「それらしく」を引き寄せてしまうのです。そう意図していなくとも、偽りの飾りは中心を遠ざける。
揺さぶる詩を書くひとには、素晴らしい踊りを踊るひとには、その装飾が見えるのでしょう。それでは通用しないなと、思うのです。
変なひとだな、と少しくらい思われても、もういいやと最近何度目かの開き直りをしています。それは今、もう一度必要な強さだから。生き方については残念ながら不器用な私が、現実とどう向き合い、日々を過ごして、日常を捉えられるか。言葉にしていけるのか。今さらながら自らハードルを上げている気もしますが、そういう挑戦の時を過ごしてみようと思います。