ざわざわする煩い
心が騒つくとか、嫌な感じがするとか、そういったマイナスと思われる意味合いだけでなく、ざわざわと頭が胸の内が身体が動き、動かされるようなことが実は苦手だ。
「ざわざわ」には、喜びも悲しみも怒りも、あらゆる感情を含む。もちろん一応人間なので、誰かと出会ったり一緒に過ごしたりすることは楽しいし、そういった時間を過ごさせてもらえる幸福は好きだ。やや矛盾しているかもしれないが、コミュニケーションは得意ではないにしろひとが嫌いなわけではない。むしろひとは好き。複雑だけど、複雑だから、たぶん好き。
けれど一方で、その要因が喜びでも悲しみでも、わたし自身が何かしらざわざわしているとき、その感情に支配されてしまうことをどこかで恐れている。さらに言えば、そういったとき瞬間的に、言動に感情が乗ってしまうことをできるだけ回避したいと思っている。
結局書くときの話になってしまうのだけれど、言葉が「感情に綴られてしまった」それを、自分の作ったものに関しては良い作品だとは思えないのだ。どれだけ落ち着いて書き始めたと思っても、深層にある感情はどこかで顔を出して、個人的すぎる思いを主張しようとする。その瞬間に流れがすべて、思いや主張に向かって集約を始めてしまう。特定の場合(については、後日書きたいと思っています)を除いて基本的には、何かを吐露するために、強く語りかけるために、わたしは詩を綴ってはいない。
ざわざわはだから、ときにとても煩わしくてわたしを悩ませる。そっとただ「ある」ことを求めて、もしかしたら「あること」そのものすら忘れて、静かに過ごしていたいと思う。スイッチをオフにする。オフのわたしはどうしようもない。どうしようもなく愉しげに、ひとりでいられてしまう。行ったり来たり、浮上したままでいられないのは面倒でもあるけれど、水面下で月を見上げるような揺らぎが、わたしにはきっとちょうど良い。
放っておいて。そんな強い言葉は言わない。愛したいけど愛さない。そんな気持ちにも似ているかもしれない。そこにつけることができる名前を、わたしはまだ知らない。あなたを知らない。でも、それでいいのかもしれない。理想を追うにはエネルギーが必要で、わたしには恐らく小さな備えしかなくて、誰かのそばに常にいられないのかもしれない。
もしもそのことが、言葉を連れてきてくれるのであれば。わたしの旅路は、きっとひとつの道ではあるから。
あなたには、なれません。
そのままでいたくはありません。
それでも、わたしはわたし。