理不尽に傷つけられたあなたに、戦う義理はない。
「私も悪かった。」という社交辞令に、「本当だよね、君も悪い。」と返されたら、基本的に誰でもイラっとするのではないだろうか。
「お前が言うな」をまとめたこのツイートは、とてもしっくりきた。
謙遜と相手を思いやる表面上のやり取りは、両者に相手を敬う心があって初めて成立する。
片方にそれが欠けていれば相手が搾取される形になり、搾取された側はじゃあ私もと相手を蔑む形で応戦するか、そっと離れる。
さっきの例でいえば、「いやいやでも、本当に悪いのはそっちでしょ!」とさらに言い返すか、諦めてその人と付き合うのをやめるということ。
今回はその、後者の「諦める」という選択肢をきちんと残そうという話だ。
フェミニズム系の議論を頻繁にツイッターのタイムラインで見るようになって、最近気づくようになったことがある。
女性差別をする人は、女性差別がなぜいけないのか、なぜ炎上した広告が女性差別的だったかを解説してくれる記事を読まないということだ。
わたしはずっと、男性が経験してきた世界と女性が経験してきた世界が違うから、女性差別という概念が伝わりにくいのは仕方がないと思ってきた。女性が学生時代に当たり前のように経験する痴漢や女性らしく生きることの重荷を、男性が経験しないというのは事実。今も、仕方がない部分はあると思っている。しかし、問題はそれだけではないのだ。
「気持ちは言葉にしなきゃわからない。」
このセリフは、説明する側が自分を奮い立たせるための言葉だ。自分とは違う過去を持った人に自分を理解してもらうために、自分が抱えたモヤモヤを言語化するエネルギーだ。
相手の気持ちを考えずに好き勝手に振舞っている人が放つ「嫌なら言ってくれればいいのに。」は、相手をさらに追い込む言い訳でしかない。
セクシャルハラスメントを利用した広告で炎上したレペゼン地球・DJ社長に対して、なぜその広告がいけないものだったのかをていねいに説明するという趣旨の記事がある。
この記事に対するリアクションは、わたしの周りで二種類あった。
一つは、女性差別に疎い人に対して、無知から起こった過ちを受け入れ、知識の溝を埋めようとする記事の試みに賛成する人。「やはり対話が大切。」「話し合わないと埋まらない溝がある。」といった感想がそうだ。
一方で、炎上事件から数ヶ月経っているにも関わらず、女性差別に対して未だ無知に等しいDJ社長に疑問を持つ意見もあった。
わたしは後者に近い感想を抱いたし、それは前者としていろんなものを学び、世界に触れ、疲れたからだ。
わたしは、大学で社会学や哲学の授業をお金を払って聞いて、時間と労力を使って英語の論文を読み漁り、もちろん専門家や活動家には及ばないが、なぜ炎上したものが女性差別に当たるのか、なぜ男女は平等でなければいけないのかをある程度説明できるようになった。
それはわたしが望んでしたことだし、自分が正しいと思うことをきちんと証明できる力を持ちたいと今もなお望んでいる。
でも一方で、この女性差別で不利を被っている人が労力と時間をかけて女性差別の存在を証明し、なぜそれが間違っているのかを説明しなければいけないこの状況こそが、不公平ではないだろうか。
これは、女性差別に限った話ではない。理不尽な仕打ちをした加害者側は、自分で自分のことを告発しないし、なんなら酷い仕打ちをしたことに気づいていない場合すらある。それならば、被害を受けた側が状況を変えるためになんらかのアクションを取らなければいけないというのは、筋は通っている。
筋は通っているけれど、それでも不公平なのだ。
友達にそんな話をしたら、まずその状況が不公平だということが理解してもらえなかった。
そこで、ルームメイトがとてもひどい人で、一緒に住めないとなった時に、部屋を出なければいけないのはあなた。それって不公平じゃない?と大学生活になぞらえてみたら、不公平であることは理解してくれた。
でもそのまま、「それでも、放っておいても社会が変わるわけでもないし、仕方なくない?変えるしかないじゃん。嫌なら部屋を出るしかないじゃん。」と言われた。
本当にそうだろうか。
人種、障害、性別、育った環境、家族。誰しもが、自分の過ちではない生まれ持った何かで理不尽な扱いを受け、他人がしなくて良い苦労をしながら生きている。それと同じく、自分が利益を得ている部分もある。
それなのに、ただ理不尽な仕打ちを受けるだけではなく、自分の不利益だけ主張し自分が利益を得ていることは認めようともしない人たちを教育し説得する義務まで負わなければならないなんて、地獄だ。
少なくとも、そんな社会の中で泣き寝入りする権利くらいは残しておいてほしい。引越しという手間をかけて状況を変えるという選択肢と、嫌なルームメイトとの生活に耐えるという選択肢。二つの中から好きな方を選ぶ権利くらいは、理不尽の中に残すことができる。
みんな、程度に差はあれど、差別の被害者であり加害者だ。(こう主張することすら、特に被害を受けている人とあまり被害を受けてない人をひとまとめにすることになる。でも、被害者と加害者という二項対立の議論をしても仕方がないと思うから、ここではみんなどちらも経験するということで話を進める。)
その中であなたがすべきことは、被害者に戦えと迫ることではない。
あなたに戦う義理も義務もない。生きにくい社会だけれど、それを諦めてその中で生きていくという選択肢もある。そう彼ら彼女らを受け止めてあげることだ。
これは個人ベースの話で、社会全体としてはもちろん、差別を減らす方向に進まなければいけないし、そのために動いている人は積極的に応援されるべきだ。その人たちに、おかげで戦わなければいけない雰囲気になってしまったなんて攻撃をするのもお門違いだろう。
わたしも、体力が続く限りは社会の一員として、自分が学んだことや他人への思いやりを持って、生まれ持ったものに関わらず誰もが幸せに暮らせる世界を目指したいと思う。
しかしそれと同時に、「でもあの人も戦っているよ、戦わなければ、説明しなければ、社会は変わらないよ」と戦うパワーすら残っていない被害者をさらに追い込むのではなく、理不尽さを認め、気持ちに寄り添い、戦わない権利を認めることを忘れないでいたい。戦わないってつまり、耐えるってことだ。それですら楽なことじゃない。
そうやって戦わない権利を認める輪を広げていくことが、理不尽が存在していることを認めることが、それをなくす最初の一歩にもなると思うし。
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