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雪降るアメリカのキャンパスを去って思うこと

桜に囲まれた卒業式にはならないまでも、暖かい日差しと友人に囲まれた卒業になると思っていた。

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私はアメリカ・オハイオ州の大学に正規留学生として4年間通い、コロナの関係で休学などを挟みつつも、先日無事卒業することができました。

しかし、コロナと就職活動の関係で休学したため、四年間を生き抜いた友人と、五月の爽やかな日差しを浴びながらの卒業は叶いませんでした。でも、想像と何もかも違った悲しい卒業になったわけではありません。オハイオらしい極寒の日々が続く中、ふと現れた春日和の一日。その日に、最後の一学期を一緒に過ごした友人に挨拶し、後輩に見送られて、キャンパスを後にしました。想像とは違ったけれど、これもいいと思える現実。私の大学生活も、そんな一言にまとまる気がします。

渡米前の私といえば、「リベラルアーツ大学で、自分のやりたいことを見つける」このたった一つの目標を掲げていました。奨学金の審査に落ちては、キラキラした夢を見つけ歩みを進める同級生を横目に、夢がまだ見つかってない私はダメなのかと少し凹んでいました。

大学での四年間を経て、哲学という好きなこと、コピーライターというなりたい職業。そしてその先にある、意味のある世界を作りたいという「やりたいこと」を無事見つけた私。逆に言えば、高校生時代に掲げた目標を達成しただけの四年間とも言えます。文系少女が理転し、そのまま物理の大学院に行くというような、少し憧れていた軌道調整もなく、振り返ればずっと好きだったな、ずっと頭の片隅にあったなというやりたいことに落ち着いた。

でも、私の卒業がそうであったように、やはり高校生の頃描いていたところとは随分違うところに辿り着いた気もするのです。高校生の頃との考え方の違いを挙げれば、キリがありません。ジェンダーのことも、自分の基準で物事を選択することも、社会の当たり前がすべてではないことも。高校生の頃は考えてもいなかったし、知らないうちに囚われていたことでいっぱいでした。それで誰かを傷つけたこともあったと思います。

誰かの卒業投稿に対する「おめでとう」の言葉の意味。多くの人が当たり前にしているように見える卒業が、どれだけめでたく、恵まれたことなのか。

今まで支えて、見守ってくださった皆さんへのお礼の意味。自分が生きているだけでどれだけ多くの人に支えられていて、また苦しいと伝えた時に心配してくれる人が思っているよりもずっとたくさんいること。どれだけそれがありがたいことなのか。

大学生活を通して、少なくともこれらを学ぶことができました。私は、とても恵まれていると思います。だからといって申し訳ないと卑屈になるのではなく、その特権を社会に還元していけるよう、これからも幸せになり、そして誰かを幸せにしていきたいと思います。


これまで私と関わり、支えてくださった皆様。改めてありがとうございました。これからもよろしくお願い致します。良いお年をお迎えください。

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