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他人への想像力とは、知識、能力と態度。

最近、「想像力」という言葉を耳にする。わたしもよく使う。

大きなお城とか壮大な冒険を描く能力とはまた別の、他人を慮る能力という意味だと理解している。

でもけっきょく、他人への想像力ってなんだろう。

「他人への想像力がない」という批判に、もう一歩踏み込んでみる。他人への想像力がない人は、具体的になにが欠けているのだろう。想像力には、何が必要なのだろう。

わたしは、「他人への想像力=知識 × 能力 × 態度」という仮説を立ててみた。

他人の人生、感じ方についてのデータ

想像力という言葉の意味は、そもそも二つに分かれるらしい。

想像する能力やはたらき。過去の表象を再生するもの、全く新しいイメージを創造するものなどに大別される。(大辞林第三版)

多くの人は、他人への想像力を後者で捉えている気がする。自分のとは違う他人の人生や気持ちを、0から頭の中に描くような。

でも実際は、知識というデータベースと照らし合わせて、一番相手の気持ちに近そうなものを見つける「再生」に近い作業なのではないだろうか。

人の気持ちというのは、言ってしまえば本当に人それぞれだ。勉強できるねと言われて嬉しくなる人もいれば、創造性がないという嫌味と捉えて悲しくなる人もいる。それを「なぜわたしの気持ちがわからない」と言われても、自分と同じように感じるか否かはクジのようなもので、他人だから仕方がないとしか言えない。

でも一般に言う「他人への想像力」はそこまで求めていない。殴ったら相手は痛いとかそれくらい基礎的な、行動とそれに対する気持ちの動きを予想して欲しいという意味で使っている。

だとすれば私たちにできることは、「これをしたら多くの人はこう感じる」「この行動をするとき、多くの人はこんな気持ちだ」といった方程式的知識を増やし、予想の精度をあげることだ。

たとえば、アメリカの大学ではたくさん論文を読む。実験やアンケートに基づいた数値を使って人の傾向を表すもの(人は嬉しいことより悲しいことの方が記憶に残りやすいとか)もあるし、ナレーション型のインタビューや経験ベースのエッセイのようなものもある。

種類に関わらず、論文というか勉強は、わたしの世界を広げてくれる。親の収入と子供の学力が相関していることを知れば、学力が低いことが必ずしも子供の努力不足のせいでないという想像もできる。黒人が経験している今なお続く日常的な人種差別とその構造を学べば、人種差別に必死で反対している人の気持ちが、ほんの少しだけれど想像できるかも知れない。

論文のように、事実に基づいてものである必要もない。フィクションでもいい。本でなく映画や漫画でもいい。「あやうく一生懸命生きるところだった」という韓国のベストセラー(翻訳本はこちら)でも、小説の価値についてこう話す。

言語化できなかった複雑な感情も小説を通して知ったし、他人の行動や心理状態も小説を通して少しは理解できた。たくさんの物語を知ることは、より多くの理解を得ることにつながる。自分一人分の人生では物語が足りない。ゆえに理解も不足する。生き方、世の中、他人を理解できずに苦労する。だから人間は、物語を発明したのかも知れない。なんて素敵な発明なのだろう。

とにかく、自分以外の何かを通して世の中を見ることが、他人への想像力の元であるデータベースを肥やしてくれるのだ。

データを、目の前の人に当てはめる能力

一方で、データがたくさんあるはずなのに、想像力があるとは言えない人もたくさんいる。アメリカの大学にいて、たくさん差別に関する授業を受けるはずなのに、差別的な発言をする人とか。

そんな現象が起こる一つの理由は、知っているものを、自分の目の前の状況に当てはめるには、一定の能力が必要だからではないだろうか。

必要な能力一つ目は、抽象化力。いわば、ルールを見つけて、それを具体的なものに当てはめる能力だ。抽象化と聞くと難しく感じるが、私たちは日常でこれをやっている。

抽象化とは複数の事象の間に法則を見つける「パターン認識」の能力とも言えます。...ここでいう「法則」は、「フレミングの法則」や「慣性の法則」のような物理学の法則だけではありません。例えば身近な「夕焼けが出れば翌日は晴れる」のような「経験則」でも構わないし...会話の相手が怒っていたり喜んでいたりする状況を相手の表情から読み取れるというのも、暗黙のうちに私たちが顔の動きの「パターン」を読み取って、「こういう場合は起こっている」と判断しているわけです。(細谷功「具体と抽象」より)

たとえば、小説内で主人公が恋人にひどいことを言われて傷ついたとする。抽象化するということは、それをみて、「人(主人公ひとり→ヒト一般)はあなたなんていらないと言われたら傷つく」と範囲を広げることだ。

抽象化には度合いがあって、「人は恋人にあなたなんていらないと言われたら傷つく」と範囲を狭めることも、「人は自分が必要とされていないと感じた時に傷つく」と範囲を広げることもできる。抽象化できるほど、一つの知識から想像できる範囲が広がる。つまり、想像力が上がる。

当たり前のように感じるかもしれないが、人種差別には敏感なのに、平気で女性差別的発言をするような人もたくさんいる。逆ももちろんある。自分が言っているその論理が、目の前の人にも違う形で当てはまるということに気がつくには、知っていることの抽象化が必要なのだ。

そして、必要な能力の二つ目は、客観力。自分に絡まっている私利私欲や限られた経験から離れ、世界を空の上から俯瞰する能力だ。

上の差別の例だと、自分が被害にあっている社会問題に目が行きやすいのは当然だ。そして、自分だけつらい状況にあると信じたい気持ちも働く。わたしは、それ自体にいいも悪いもなく、そういうものだと思っている。

ただ想像力に関して言えば、そういう自分に働いている「自分が得をするように動きたい」「自分に都合がいいように世界をみたい」という内側からの圧力を認識し、あえて一歩引いて目の前の状況を理解する能力が必要だと言える。

抽象化したものを他人に、目の前の状況に、きちんと当てはめることができなければ、いくら抽象化をしても意味がない。

「嫌なことがあったとき、人は八つ当たりをしてしまうことがある」というルールを知っていても、自分を客観視できなければ、自分が八つ当たりしていることに気がつけない。今日は周りの人がなんだかイライラさせてくるなで終わってしまう。

逆に、なんだか今日あたりが強い彼女に、今朝嫌なことがあったのかもしれないと思いを馳せることができず、ただ性格が悪い人なんだと誤った印象を持って関係を終わらせてしまうこともあるかもしれない。

他の人の人生や感じ方のデータを、抽象化してより多くの場面で使えるようにする。そしてそれを、実際に目の前の場面に当てはめる。そんな能力が、想像力には必要なのだ。

これらの能力の育て方を答えるには、心理学など学術的知識が必要だろうから、私は詳しく説明することができない。ただ、わたしは個人的に、次に話す「態度」が能力にも大きく関わっていると思う。

想像しようという意欲と態度

客観力の部分でも述べたが、人は自分の好きなように世界を認識する傾向がそもそもある。心理学では、認知バイアスと呼ばれているものだ。

全く同じ新聞記事を読んでも、自分が賛成していることなら証拠がたくさんあって信頼できると感じ、反対していることなら証拠があやふやで信頼できないと感じる(確証バイアス)。

同じ過ちを犯したとしても、たとえばテストの点数が悪かったときに、自分の点が悪い場合は教授や体調など環境のせいにして、他人の点が悪い場合はその人の努力や能力のせいだと考える(行為者-観察者バイアス)。

そんな傾向が、誰にでも備わっているのだ。

この自分勝手本能を意識的に思い出し、少しでも相手の状況を想像しようとする。そのために、どのデータが使えるかと抽象と客観をくり返し、試行錯誤してみる。そんな相手を想像しようとする態度を通して、抽象化力と客観力は上がるはず。自分勝手本能を克服し、誰かを思いやろうとする態度。それが想像力の根底にある。


しかしそれは言い換えると、自分にとって都合がいい世界を諦めるということでもある。みんなは想像力が大事というが、想像力があるほど、知りたくもない相手の状況を察してしまい、疲弊したり罪悪感を感じなければならない。

想像力がない人はのんきに人を傷つけるのに、そしてそれに対して何も思わないのに、想像力がある人は気をつけて気をつけて生活し、それでもなお相手を傷つけてしまったのではと自責の念にかられる。

どっちの人生が楽かと言われれば、たぶん前者だ。

想像力は、人びとが尊重しあう世界への鍵

じゃあ、想像力なんてものは、あるだけ損なのか。この正直者がバカをみる世界で、得をするためには、想像力を捨てるべきなのか。

答えは否だと、私は信じている。他人の気持ちを想像できる人にしか、作れない世界がある。他人の痛みを理解できる人にしか、救えない人生がある。そう実感しているからだ。

学生時代クラス会の幹事をして、帰り際に「大変だったよね、ありがとう。」といつも声をかけてくれる子がいた。影で動くことに慣れていたから、何も言われなくても、何も思わなかった。けれど、そこでお礼を言える子は、かっこいいと今でも思う。

想像力には学ぶ努力と、能力を磨く努力が必要で、それは容易にできるものではない。学べば学ぶほど、自分と違う境遇の人生があまりに想像とかけ離れていることを知り、自分の無知を知ることになる。

私は女性だが、大学に入学した当初、女性差別なんてないと思っていた。大学で論文を読み、たくさんのストーリーに触れて、知識を身に付けた。そうしたら、普通だと思っていたことが不自然になって、女子高生だった自分には見えなかった世界が想像できるようになった。

自分が女性だったから、損をする立場だったから。どんな構造で女性差別が起きるかを学ぶ意欲も、経験が似ている他の女性の境遇に、学んだことを当てはめることもできた。けれど、私がもし男性だったら、そこまでの努力はできなかったかもしれない。

自分と遠い人。自分と意見が対立している人や、自分と全く違う人生を歩んできた人。彼ら、彼女らの見ている世界を想像することは、たくさんの労力と時間を要する。

自分は必死に想像して相手を慮っても、相手が自分の気持ちを想像してくれるとは限らない。ときには損をしたと感じる時もあるだろう。

そして「想像」には、どれだけ精度をあげてもまったく同じものにはたどり着けないという矛盾が内包されている。どんなに頑張って理解しようとしても、相手にわかっていないと否定される可能性がある。相手には、否定する権利がある。そのことに対する覚悟も必要だ。

一見、リスクが大きすぎる茨の道にみえるかもしれない。

それでも。

それでも、目の前の人の気持ちを想像しつづけられたなら。

きっと、そうしなかった自分では見ることのできなかった、景色が待っている。それに、あなたは一人ではない。同じように、お互いが想像力を持って他人を尊重しあう世界を目指す仲間は、どこかに必ずいる。

少なくとも私は、まだまだではあるけれど、想像力を育みつづけていきたいし、そうすることでしかみられない景色をみてみたい。

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