待つということと、私の待つ。
以前、こんなnoteを書いた。彼氏がコロナにかかったけれど連絡が取れず、容態がわからないのでとても不安だけれど、待つしかないという状況で書いたものだ。
最近『待つということ』という本を読んでいたので、「期待や希望を抱かなくなった時、人は本当に待つことをはじめられる」といったような難しい内容を、身に染みさせながら待っていた。
結論から話すと、「無事に治って、明日から仕事に戻る」という連絡が来て、重症化もしていなかったようだからよかった。本当によかった。
全ての、今も闘っている人と、それを見守るしかできないパートナーや家族の人が報われますようにと願いながら、備忘録的に、待っていた間の心の動きを書き留めておきたい。
*とてもパーソナルな引用が続くので、備忘録の部分は有料にします。個人的に興味があれば、こんなふうに人の気持ちが変わっていくんだなと眺めてください。
待つということ
上記の本は、待つことについてこう述べる。
<待つ>という行為は、そうした「応え」の保証がないところで、それでも一方が関係を願いつつ、あるいは信じつつ、それを保持しようとするところに生まれる。なんの「応え」もないままそれでも「応え」を待つということ、それはその「応え」をいつか受け容れるものとして、それまで身を開いたままにしておくということである。
一般に待つというと、待ち合わせとか、給料日を待つとか、何か特定のものが訪れるまで時間を過ごす状況を想像する。
しかしこの本で触れるのは、確定した未来からの逆算的な待つではなく、いつ訪れるかわからない、何が訪れるかもわからない状態で、ただそこにいるという<待つ>だ。
携帯がある状態での待ち合わせにおいて、時間が来ても何の連絡も無く、相手もいないということはあまりない。
けれど、携帯のない時代において、待ち合わせはもっと寂しく、不確実なものだった。相手が来なかったらどうしよう。ただ来るつもりがなかったのか、忘れてしまっているのか、それとも途中で事故にあったのか。それを確かめる術はないからだ。
引用した部分で触れている、この本がメインで扱う待つは、後者の不確実な<待つ>だ。
たくさんのもしかしたらが現れては消え、期待してはその期待を捨てる。最終的に、特に特定の未来を期待することもなく、何が来てもいいように、自分を開いて毎日を過ごすところに落ち着く。もし結果的に、待っている何かが来なくても、待っていた時間が無駄だったなんて思えないほど、時が熟成されていく。
そういうものらしい。
私の「待つ」
私は結局期待を捨てきれなかったし、一週間とちょっとで時が熟成されるということもないのだろう。ただ、いろんな期待を持って、願い、祈ったり、諦めたり、また希望を持とうとしたりした。その変化は、こういう境地に立たされないと味わえないものだったと思う。
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