対話はフレンチとおにぎりが一緒にテーブルに出されるようなもの(大澤真美)/ことばの焚き火に掲載されなかったシリーズ④
対話をしながら、自分の声を出すことに、気後れすることがあります。
すごく言葉にするのが上手な人がいたり、ちょっと自分にはよくわからない難しそうなことを言っている人がいるとなおさら。
自分のことが小さく見えて、「どうやって言葉にしたらいいんだろう?」「こんなこと出したって意味ないんじゃないか」そう思っているうちに声が出なくなっていく。
対話の場で起こるそんなことについて話しをしているときに、「対話の場って、フレンチや懐石料理やイタリアンが並んでいる横に、自分で握った塩むすびを安心して出せる場ってことでしょう?」と友達が言ったことがありました。
そうそう、そんな感じ。どれがフレンチで、どれが塩むすびかというジャッジは意味ないけれど、そんなイメージ。
フランス料理に気後れして、塩むすびを出せない気持ちになることもある。でも、案外そっちを食べたい人がいるのです。
流れるように美しく話す人の言葉より、絞り出すようにポツリポツリと話す人の言葉に揺さぶられることもある。
どんな料理もいいんです。どんな言葉もいいんです。自分から生み出されたものでありさえすれば、それは誰かの何かに響いていくと思っています。
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