見出し画像

大きくなったら何になりたいですか、という呪縛。


大きくなったら何になりたいですか?

幼稚園の誕生日会、ステージの上で聞かれたその質問の呪縛の恐ろしさに気がついたのはつい先日。私は25年もの間呪縛に囚われ、気づけば29歳になっていた。

小さな体育館のステージの上に、同じ月に生まれた数人が等間隔で座る。先生お手製の王冠を被り、どこか誇らしげな気持ちだったことを覚えている。全員が平等に歳を取るというのに、ステージに上げられた私は特別な存在のよう気持ちになっていた。

昔の記憶を思い出す時、不思議と私は私を見ている。ステージの上に上がっていたはずなのに、ステージからの景色は記憶には存在せず、俯瞰で見た私が記憶の中にいて、その私が答える。

大きくなったら看護師さんになりたいです。

隣の子がシルバニアファミリーになりたいと答える中、私のなりたいものは看護師さんだった。友人の母親から「立派ね」と褒められた。


私はいい子だった。大人から褒められることが正しいことだと信じていた。
なぜ看護師になりたかったのか、今となってはもうわからない。家族の事情でよく病院には行っていたし、そこで見た白衣の看護師さんがかっこよかったのだろう。きっとそんな、子供らしい理由だったはずなのに、いつの間にか「看護師さんって立派な夢だから」「誰からも応援されるから正しい」と思っていた。
シルバニアだの消防車だの答える友人を「間違っている」と、不正解の烙印を押していた。そんな可愛くない4歳児だった。


小学生になって「将来の夢」という誰もが書かされるであろう作文を書いた。当然わたしは正しい夢である看護師についてその熱意を文に込めた。
そのうち、正しい夢である看護師は「昔からずっと変わらない夢」という無価値な意志の強さを飾りにつけてつけてますます正しく立派な夢になっていった。

中学生の頃の記憶は一旦消去したので、今は引っ張り出さないでおく。

高校3年生になり、迷わず看護学科のある学校に進学を希望した。頭はいい方でもなかったが、大人に好かれるずる賢さは兼ね備えていた。なんてったっていい子をやるのは得意だったから。
推薦を狙える学校に絞り、内申点を上げるためだけに試験勉強をした。試験で高得点を取れない不得意な科目は、休み時間に質問をして先生の印象に残るようにやる気アピールをした。
評定平均4.8を叩き出し推薦で進学した。


看護学生はそれはそれは険しく辛い日々だった。そこらじゅうに転がっている看護学生は辛いというネタはほぼ全て実際に経験した。
死にたくなるほど辛いこともあった。でも私は諦めるわけにはいかなかった。看護師という夢を、ただそれだけを目指して生きてきたのだ。他の職業には一切脇目も振らずに突き進んできたのだ。そのプライドだけが日々生きる僅かな活力となって当時の私を支えていた。
無事国家試験に合格し看護師になった。総合病院で8年勤務し、そして今年退職した。私にとって看護師は天職だった。4歳の時に決めた夢は正解だった。それなのに、退職してしまった。疲れてしまった。
生死に関わる仕事のストレスは大きい、当たり前だ。



看護師を辞めた私は何者でもなくなった。


何者でもなくなり、同時に生きる意味を失った。


どうにか生きる意味を見つけたくて、今の私は一体私は何者なんだろうという問いを3ヶ月も続けていた。

答えが見つからないから再就職して看護師に戻ろうと思ったけど、体が全力で拒否した。

そしてまた、答えのでない問いを1日に何十回と繰り返した。

答えは急に降ってきた。
2024年、年の瀬、お風呂に入ろうと服を脱いでいた時、突然幼稚園のお誕生会を思い出したのだ。
ああ、あの時だ。私が看護師さんになりたいと言ったあの時から私は何者かにならなければいけないという呪縛にかかっていたのだ。
看護師だった私も看護師でなくなった私も、何者でもないただの私だった。


脱衣所から叫んで夫を呼び、妖艶とは程遠い半裸体を晒したまま「私何者にもならなくていいんだわ」と、まるでリーマン予想が解けたかのように偉大な答えを言うかの如く宣言した。


そして今、私はnoteを書いている。何者でもない私を続けるために。ライターでもエッセイストでもないただの私が書いている。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集