KOTO'S LIFE STORY 第4話 青柳保育園
当時通っていた青柳保育園は新狭山ハイツの端っこのちょっとした高台にあった。
なかよし広場という大きな公園の横だ。
家から子供の足で徒歩4分。
同じクラスの子達はほぼこの団地の子供達。
毎日が楽しいはず、だった。
だった、というのはつまりそういうことだ。
幼少期の僕の人生において平穏な日はなかなかやってこなかったということ。
どういう字を書くかは覚えていないがドウゲン先生という女性が担任だった。
いつも眉間にシワがより意地悪そうな目をしていた。
子供頃から直感はよく当たる。
とにかく僕は彼女によく怒られた。
どんな理由かはわからないが怒られた記憶しかないのだ。
保育園だったので給食があるのだが全部食べるまでは給食を終わらせることはできないシステム。
好き嫌いの多かった僕はいつも最後のふたりに入ってしまう。
もう1人は誰だか覚えていないが食事を終えてみんなが外で遊んでいるのにいつもいつも長い廊下にポツンとふたりだけ残って食べさせられていた。
涙をポロポロ流しながら。
それは今でもはっきりと思い出せる風景。
園庭に遊びに行きたいのにみんなと遊べない悔しさ。
僕は今でも柿が食べられない。
見るのも嫌なのだ。
というのもある時近くの農家のお宅でみんなで柿を取ってきてそれをおやつにした日があった。
少食だった幼少期の僕は渋い柿で不味いのとお腹がいっぱいで食べられなかった。
それを徹底的に食べさせられた。
先生が目を離した隙に食べきれない分をそっと残飯の入った器に入れて終わらせようとしたらあっさり見つかり、僕が捨てたものを拾って食べさせようとしたことを今でもよく覚えている。
違う日は豚肉の脂身も食べれなかったので同じことが起こった。
これは世が世なら間違いなく子供の人権問題の炎上案件だろう。
今では決して許されないが昔はそういう酷いことなんかも山ほどあったのだろう。
ドウゲン先生はあまりに僕に強く当たるので他のクラスの担任の先生が心配してこっそりと僕の母親や僕の友達のお母さんに心配していることを伝えたくらいだった。
幼少期なりに自分に自信が無くなってしまったのは彼女が原因のひとつだったのだと思う。
自己肯定感が低くなっていった。
おかげでより引っ込み思案になってしまった僕はいつも目立たないように静かに人の話を聞いていた。
だから大人達から見るととても聞き分けの良い子供だった。
家と園しか居場所がない小さな子供には辞めるという選択肢は思いもつかない。
そんな気持ちを隠して家では普通にしてたんだと思う。
朝は大好きだったピンポンパンとポンキッキを見てから保育園に出かけるというルーティーン(笑)をこなし続けた。
そこで得たものは理不尽なことに対する我慢強さと辛いことがあっても自分の中だけで処理する癖だったのかもしれない。
写真にあるのはおそらく5歳の時に園長先生からもらったバースデーカード。
気弱そう、静か。
その時の僕のキーワードがちゃんと書いてある。
担任ではない園長先生から見てもそう映っていたようだ。
そして写真の僕の目はつり上がっている。
心中穏やかではなさそうだ(苦笑)
多分何かに怒りを感じていたのだろう。
何か、ではない。
その理由はお察しの通り。
ちなみに数年後弟も青柳保育園に入ったがやはりその先生とソリが合わずに1年で他の幼稚園に移った。
弟は自己主張の出来る子供だったので行きたくないと親にしっかり伝えてバスで迎えに来る幼稚園にさっさと転園した。
青柳保育園はそんな場所だった。
<つづく>
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