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KOTO'S LIFE STORY 第2話 新狭山ハイツ

幼少期から小学校5年生まで住んでいた新狭山ハイツという西武新宿線・新狭山駅からバスで8分、歩くと25分という車の無かった僕の家庭には不便極まりない距離にある32棟からなる森を造成した新興の団地はひたすら遊び場だった。

昭和40年代半ば。
イケイケの高度成長期に入っていた日本経済。
首都圏に集中する人口。
ベッドタウンとしてのドーナツ化現象の一端を担ったであろうこの団地。
池袋や新宿を一本で結ぶ西武線。
東京から1時間掛からずに帰ってこれる距離。
この辺りに居を構えるというのは父親世代のサラリーマンにはとても現実的な選択だったと思う。

まさにどの家も中流家庭だった。
基本的にはどの家も同じような間取りに同じくらいの広さ。
価格の差と言えばエレベーターの無い5階建なので1階と5階の値段には差がある。
もちろん1階の方が値段は高い。
なぜなら庭付きでもある。
この団地の中では1階の人たちが団地ヒエラルキーの一番上のポジションだ。

建ってから40年以上経ってはいるがなんと今でもそのまま残っている。

団地内には公園が点在していた。
子供はたくさんいるし遊具もあって遊びには事欠かない。


そして当時の新狭山ハイツは森、川、畑に囲まれていた。
八百屋、魚屋、肉屋、薬局、パン屋そして少し離れたところに「しろくら」という子供ながらに人生の縮図が詰まったような印象の文房具屋兼駄菓子屋もあった。
もちろん名物おばちゃんがエプロンをして奥に鎮座している。
そのエプロンのポケットにはいつも小銭がジャラジャラしていた。
我々団地の子供は数10円、多くても100円くらいを持って欲しいものを考える。
僕たちは「しろくら」で少ないお金で何を買うかという選択を常に迫られていた。
そこで金銭感覚の基本を身につけたのかもしれない。
「しろくら」は街の子供の教育係でもあった。

そしてたくさんの友達と友達のママ。
小さな世界しか知らない僕にとってはパーフェクトで正しい街だった。

しかしその正しい街にはたくさんの難関があった。


当時の子供は年齢関係なく遊んでいたので4歳のころでも小学生と連れ立って遊んでいた。
小学生と4歳では出来ることに差がありすぎる。
小学生と同じ遊びをするのだ。
お兄ちゃん達は簡単にできることができなくてよく泣いた。

森に行けば死ぬほど木があるが高いところが苦手で登れない。

団地の下水処理場には怪しくて子供なら簡単に入れるくらいの直径の洞窟的な排水管があったが暗いので怖くて入れない。
それは蜘蛛の巣が顔に付くのもキライだったせいもあるかもしれない。
虫はどちらかというと今でもキライだ。

公園でもおもいっきり前後に揺れるブランコから飛ぶこともできなかった。

森を造成した団地だったので山を削ったところには必ず浅い凸凹のついたグレーの壁があった。
時代が時代ならボルダリングというオシャレスポーツもどきだったのだろうが残念ながら当時の壁はただのコンクリートだ。(よくあんな浅い溝に手足を引っ掛けて登っていたものだ)
その浅い凹凸の壁を数メートル登ることも怖かった。

そんな子供だったので男の子の中の階級では最下層だったことは想像に難くないだろう。
友達と遊ぶと劣等感を真っ先に感じるのだ。

この頃から家でウルトラマンのソフビや怪獣消しゴムでひとり遊びをしたり絵本を開くことが好きだった。
そんな時は部屋のカーテンを閉めることも好きだった。
内向きで閉鎖的な心がそうさせたのだろうか。

団地の2階下に住む1コ下のシマダユウくんとはよくウルトラマン人形で遊んでいた。
彼は1コ下だったので僕が保育園の仲間の中でヒエラルキーがどんだけ低くても大丈夫だったのだ。
ふたりの間だけではリーダーだった。
彼といる時もたまにカーテンは閉めたが。

団地の中というある種閉鎖的な空間は子供同士の関係だけではなく親同士も子供達の情報を共有しているものだ。
僕は最下層の中で目立たないように生きるのに必死だったがそんな陰なキャラもどの親も知っていてくれた。

引っ込み思案な僕にみんな温かく接してくれてとても可愛がってくれた。
それを今思い出しただけでも涙が出そうになる。
新狭山ハイツには苦しい思い出と温かい思い出がたくさんある。

母は西武線で練馬に勤めていたので埼玉・狭山の家への帰宅は早くても夜7時だ。
それを知っている友達のママ達は僕におやつを出してくれることが多かった。
そして母が帰る時間まで家で遊ばせてくれて適当な時間になると家に帰るように促される。

みんなお母さんが毎日家にいてくれていいな。
そんな羨ましい気持ちも僕を弱くした。

10号棟のナカヤマくんのママ、25号棟のサクライくんのママ、4号棟のデグチくんのママ、3号棟のナゴヤくんのママ、15号棟のジュンくんのママ、青柳のカサハラくんのママ、アヤちゃんやミナちゃんのママ。
今なら皆70代後半だろうか。

元気かな。。。


元気でいて欲しい。

特にサクライくんのママは美人な上におやつはいつも手作りのお菓子だった。
1番のお気に入りはプリン。
今でも覚えているくらいそれは美味しかった。

お互いの家庭が干渉しあいお互い助け合ったそんな団地内の人間関係の中でうまく自分を守りながら生きていたように思う。

<つづく>

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