KOTO'S LIFE STORY 第3話 怪我、アレルギー
今となってはおぼろげにしか残っていないが・・・幼少期は寂しくて心もとなかったんだと思う。
この時期はあまりいい顔をした写真がない。
両親は共働きだった。
その穴を埋めるために福島から祖母が来てくれていた。
当時の家計のことなど知る由もないが父は会社員、母は学校の先生。
十分な収入はあったはずだ。
しかし母には強い使命感があったのだろう。
決して仕事を辞めなかった。
日曜になればみんな揃うけどその日だけ。
両親は東京まで仕事に向かうので早く家を出る。
朝ごはんはいつも祖母とふたり。
祖母のことは大好きだがちょっと違うのだ、お母さんという絶対的な存在とは。。。
いるはずの人がいないのはいつものこと。
慣れているのにどこかこの寂しさを心の隅に置きっぱなしにしながら毎日過ごしていたように思う。
そのせいかことあるごとに喘息発作を起こしていたしアトピーも酷かった。
体質だったのか?
もちろん生まれつきのアレルギー体質だったが今となってはそれだけとは思わない。
子供は生きていていろいろな意味はわからないものだ。
しかし感じている。
悔しい、寂しい、怒りを。
自分の気持ちがうまく消化できなかった時、うまく自分を表現できなかった時に出したい叫びの代わりが喘息やアトピーだったのではないか。
今までも多くのお子さんを診てきて喘息やひどいアトピー持ちの子も多い。
そういう時は親子関係を観察してみる。
絶対的に食事や生活習慣も関係しているが体から発する心のメッセージが出ているような気がすることが多い。
さらには目を掻いて頻繁にアレルギー性の結膜炎になり眼科通いも加わった。
当時新狭山には眼科は無かったので電車で隣駅の南大塚まで通っていた。
何もない駅前にポツンとある眼科。
帰りに団子屋で買ってもらった醤油の焼き団子。
線路際に生えているすすき。
いつもそこに停車している錆びた貨物列車。
大人になってその風景を脳内再生すると流れてくるのはブルースしかない。
そんなアレルギー体質のせいで自分を卑下するような弱さを覚えてしまっていた。
一旦喘息が起こるとしばらくは外で遊ぶのが困難になるしひどい結膜炎で眼帯をすることも多かった。
そんな時は家の中で折り紙をしたり人形遊びになってしまうのだ。
そんな僕は折り紙がとても上手くなっていた。
「自分の弱さ」を自覚してしまった理由はそれだけではなかった。
とにかくいろんな場面でツイてないのだ。
というのもこの4歳前後の時期には大きな怪我がいくつかあった。
今でも膝に残っている大きな傷。
テーブルに軽くぶつけただけなのにびっくりするくらい膝が裂けたのだ。
いわゆる「かまいたち」といわれる現象だ。
全然出血もないのに大きく裂けていた。
しかしこんな怪我もどうでもいいくらいの怪我が小さい僕を襲った。
もうひとつの大怪我が大きなヤケド。
当時住んでいた新狭山ハイツから新狭山駅まで行くのに必ず西武バスを使っていた。
ある日何かの用事で祖母と一緒にバスに乗って座っていたら足に熱さを感じた。
なんとどういうわけかエンジンの冷却水が椅子に座っていた僕の足に向かって吹き出したのだ。
バスの構造は知らないがバスは後方にエンジンの冷却水がまわっているのだろう、それはバスの後方の席だった。
当たり前だがエンジンの冷却水は熱い。
ちょっと緑がかった熱水が吹き出したことが記憶に刻まれている。
おかげで僕の両足はひどいヤケド。
バスはその場所でとまり僕はタクシーで病院まで搬送された。
ふくらはぎから踵にかけて皮膚がベロベロ。
靴も履けないからずっとサンダル。
この時に西武バスは僕の父親に10万円程度の補償を申し出たのにも関わらず受け取らなかった。
なぜだ?
これを後に父親に聞いたが「あの時たんまりもらっておけばよかったな」なんて冗談で返された。
完全に西武バスが負うべき補償だが被害者として騒ぎたくなかったのだろう。
父親はそういう人だ。
誰のせいにもしない。
そして皮肉にもまたしばらくその西武バスに乗って新狭山駅近くにあった秋月外科に通った。
薬を塗ってくすんだオレンジ色の油紙を貼ってもらっての繰り返し。
いまでもアキレス腱のあたりには痕が残っている。
大きな怪我が続いていたのだが怪我は時間の経過で自然に治るものだ。
この時期は肉体の修復のように時間の経過で癒せないような深刻なことがあった。
保育園の先生と壊滅的に相性が悪かったのだ。
<つづく>
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