わたしは逃げられない

雨のせいか、じくじくと痛む腰のせいか、もしかして単純に連休明けで疲れているのか理由はわからない。だけど唐突にかられた「もうすべてが嫌になってしまった」という思いから、逃れられない毎日だ。

何をしても私が私として空回っていて、そして誰からも求められていないような虚しさ。つまり空虚。(漢字ってよく出来ている)

朝は 5 時を過ぎた頃、まもなく1歳半になる娘の声で目覚める。そしてまだ横になっていたい身体と脳の事情なんておかまいなしに、「リビングへ連れて行け」という号令によって動かされる。隣にいる夫は 100% を超えて眠りこけており、ピクリとも起きる気配はない。

例えばこんな1つの光景も、心のゆとりがある日ならすべてほほえましく感じるだろう。幸せの象徴におもえるだろう。

でも、全てが悲しくつらい出来事にとらえられてしまう。空虚さに支配されるとは、そういうことだ。

とはいえこういう感情は 30 歳をとうに超えた私には初めてではないし、女性特有の月ごとのイベントにより都度繰り返されてきたとも言える。それを乗り越える常套手段は、「心のなかで一度逃げ出す」ということだった。やり方は簡単で、単純に「もういやだ、生きるのをやめよう」と決めること。決めたコンマ 1 秒後には「生きるのをやめるには早い、あれも食べたい、これもやりたい」ととめどなく欲求が溢れてくるから我ながらシンプルさにあっぱれと言える。

でも、今は、今の私はその手段をまったく振りかざすことができなくなってしまった。もちろんそれは娘の存在だ。心のなかですら、一度ですら、逃げ出すことを私は許さない。生きるのをやめようと思うことどころか、「家に帰るのをやめよう」「起きることをやめよう」そんなことも出来っこないのだ。娘のために、娘が私を求める気持ちのために。

私はくるしい。ただ自分の悲観と自分の欲求とのバランスで過ごしていた日々は、娘の誕生によってもはや二度と戻らない(戻ってはならない)ものになった。心のなかで逃げ出しても、「娘のために」が日常への帰還理由の全てになる。つまり、逃げ出す理由と帰るべき理由が同等だから。それでは、ぜんぜん救われないのだ。

そして、堂々巡りの思いを消してくれるのは、やはり娘の笑顔で笑い声で寝顔だったりするから、どうにもならない。

「一日の半分が幸せで、半分が泣いています」と川上未映子氏が何かのインタビューで子育てについてそう語っていたけど、その意味がわかりすぎて、そして救いの無さに途方にくれる。

私は逃げ出せない。そして逃げ出したくないから、逃げ出さない選択をしている。

#育児 #子育て

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