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紙谷惠子歌集 :1/5 …付き添い心強くて…+あとがき(自伝)

歌集:難病発症7首 主治医9首 ナース9首 ヘルパー13首 呼吸器3首


難病発症

難病発症:7首

マンションの廊下せわしく医師来たる
   携帯は鳴り足音高く

秋の夜に搬送されて処置室に
   主治医の付き添い心強くて

退院のストレッチャーに仰ぐ空
   奇跡のごとく春嵐去り

冬の午後訪問の医師太陽に
   我が採血を透かして見せて

リビングの冬の陽強く注射器の
   目盛りまぶしく我が血輝く

涙ぐむ我の後ろに我がいて
   これぞチャンスだ短歌創れと

アレルギー自分で対処できるかと
   医師を呼ばずに汗でも拭いて

主治医


主治医:9首

我が主治医手に広告の団扇持ち
   プレゼントだとパタパタ煽ぐ

往診時水飲む様子手を止めて
   興味深く我を見つめる

投薬にクレームつけた我が前で
   医師錠剤をのみ込む春夜

我が腹に医師はのの字を書きながら
   ジョーク交えて思い出話

還暦を華甲と言うと老医師は
   節目の我に夏最中告げ

秋の午後主治医の背中西陽さし
   KENZOのロゴ人柄示し

秋の夜に壮年医師の初診受け
   主治医とナース初冬に変わり

土曜日の夕方ちかく医師が来て
   日向を背にし聴診器持ち

氷水飲み干す音がリビングの
   静けさ破り医師はコップ置く

ナース


ナース:9首

聴診器ナースに借りて音を聞き
   生かされている自分を知る

試しにとベッドサイドに腰を掛け
   首支えられ背に陽を感じ

ベッドから椅子への移動腰かけて
   10分めどにタイマーON

ナースから患者心得教わりし
   周囲に遠慮気づかいしろと

訪問の主治医とナース新たなり
   我が表情変わったねと言われ

デッカイバッグ背負い小柄なナース来て
   汗をひと拭き血圧測る

台風雨濡れた後れ毛掻き上げて
   訪問ナース脈とる準備

三日月が絵本のように綺麗だと
   ナースは我を抱き抱えて見せ

三日月をナースと眺む夕方に
   騒音の中虫の音まじる

ヘルパー


ヘルパー:13首

ゆらりゆらリビングゆらりヘルパーと
   顔を見合わせ平静保ち

震度4ユラユラ揺れて秋の日に
   我ヘルパーにドア開けてよと

ヘルパーととばり降りても話し込む
   久し振りの延長時間

いかなごの今シーズンにヘルパーも
   ナースも話す炊き方のコツ

夏の朝風呂サービス気持ちよく
   痒いところに手が当たればなと

来客に喋り続けるヘルパーに
   余計なヘルプ我には不要

ヘルパーの背中のカイロゆがんでる
   一人暮らしを如実に語り

ヘルパーと小春日和に雲眺め
   何に見えるか競い言い合う

新顔のホームヘルパー去りしあと
   心底疲れ秋雨眺む

春風にメールが届きヘルパーさん
   めがねをかけて子に打ち返す

背の高いヘルパー我を抱き立たせ
   ベランダ景色春プレゼント

ヘルパーとファッションカタログ見て談義
   ジーパンの彼女秋が気になり

風呂あがりサービススタッフ各々が
   お疲れ様と我に声かけ

呼吸器

呼吸器:3首

呼吸器の内部バッテリー搭載し
   台風の夜も停電恐れず

ベッドはリビングの中央。呼吸器とパソコン置いて
 友達とおしゃべり


呼吸器の回路取り替え秋の陽に
   白く輝き白蛇のごとく

雲切れて夕陽あたりし呼吸器の
   回路水滴ダイヤモンドに


紙谷惠子歌集「女人」あとがき

自費出版本に掲載のあとがき

障害を持って生まれ

 1949年盛夏生まれの私は、脳性小児麻痺の障害を持って生まれ、開校されて間もない肢体不自由児の養護学校に入学しました。

 私が、初めて短歌を創ったのは友生養護学校高等部の国語の時間です.。残念なことに、この時の私の作品を覚えていません。ただ、このときの光景だけは鮮明です。とても良いと誉められたからでしょう。そして、筆記が仕辛かった私は、殆どの授業を暗記しなければならなかったので、短い三十一文字に魅かれたのです。

 中学部の時に、若い美術の先生が、赴任されてこられました。
 小学部の高学年のときから、絵画家になりたいと思っていた私は、美術クラブに入って絵画を描いていましたが、特に短歌を創ってはいませんでした。

 美術大学に進学を希望しましたが、当時は障害を持った者に対して理解が無く、受験することすらも断る大学校もありました。

 身体に障害を持った者には、厳しい社会でした。美術大学受験は、フリーハンドで直線を描けなければならず、身体に脳性マヒ特有の症状のひとつである不随意運動が起こってしまうために直線を描けない私には受験は無理だから、進学費用で個展を開いてみてはとの美術の先生ご夫妻の意見で、四年間だけ毎週日曜日に、先生のご自宅に油絵を描きに通わせていただきました。
 そして、この間、神戸市民美術教室に通いました。私は、裸婦デッサンを描き、学びました。多くの人と親しくなりました。

 四年の歳月が経ち、神戸市三宮地下街「さんちかタウン」に設けられていた「三菱ギャラリー」で個展を開かせてもらいました。

その後、非常勤で、福祉法人に勤めることになりました。ここで五年間、お世話になりましたが、父の勧めで退職をしました。

 そして、手織り、木彫、染織、籐芸(籠)、華道などを市街地の民間経営や神戸市内の区立公民館などで広く開かれていた文化教室に習い、学びに通いました。将来、油絵描きとして、生きていきたいと思っていました。
 自分自身で、布を手織ったり、糸を染めたりしてみたいと。色彩と関わり、創造したいと。
 そして自活するための収入源になればと考えたからです。

病状の変化

 日常生活での私は、脳性マヒ特有の不随意運動があるために、時間を要しましたが、自力歩行も出来、殆どひとりで、なんでもできていました。しかし、40歳頃から、身体が少しずつ動かなくなって来ました。
 阪神大震災の少し前頃には、全く、手・足・体幹の自由を無くする、神経が侵される病気、ALSを発症していました。2002年のクリスマス・イブに、気管切開をして、人工呼吸器を導入することになりました。
 自力で動けなくなってから私は、絵筆の代わりとなるものをひとりあたまの中で、考えました。
 そして、短歌を絵筆にしたいと、想い始めました。

 理由は、阪神大震災で、私の生家が半壊となって引っ越しをしなければならなくなりました。

リビング

 阪神大震災で、半壊となってしまった、山裾の住宅街の静かな環境だった生家から官庁街のマンションに引っ越しました。

  エレベーターを降りると共有ベランダ通路から、神戸港を一望できました(現在ビルが建ち、景観が変化)。階下には相楽園が見え、近くには異人館街があったからです。六甲山系の四季の眺めを楽しめます。描いてみたくなりました。絵筆の代わりに、短歌をと。全く自己流ではじめました。

 私のベッドは、リビングの真ん中にあります。リビングの窓から高取山が、眺められるからです。

 一日に有った事や感じたことを短い言葉で、表現したことなどを、私はメモや走り書きが全くできないので、実姉の帰宅を必死で待って、私の創った短歌を忘れないようにと、姉が帰宅すると同時に、買い置きのノートにメモってもらい始めました。 

私は、高齢の両親のもとで育った、末っ子。父は私が27歳の時に他界し、母は震災後に亡くなりました。兄たちも震災後に他界しました。

現在保育士をしていた姉とヘルパーさんと訪問看護師さんの訪問で、過ごしています。

そして、卓上パソコン(独学)とノート・パソコンを購入。その後、私の身体は、指一本さえも自力で動かせなくなってしまいましたので、ヘルパーさんに、私のノート・パソコンを口伝えで、キーボードとマウスを動かしてもらいながら入力をしていました。

 私は、車椅子を使用しなければならなくなってからも看護師をしていた友達の協力で、人工呼吸器を導入するまでは、健常者と同様に旅行をしました。3度、ハワイにも行きました。

意思伝達装置日立パソコン(伝の心)

 2003年6月10日に、意思伝達装置日立パソコン(伝の心)の使用をはじめました。

「伝の心」(でんのしん):日立ケーイーシステムズ


 私の場合は、顔を左右にだけ自力で向けられますので、ポイント・センサーの先端部分を顔の頬で打つ方法で入力できます。 この日からメールなどが、自分自身の力で送信できるようになりました。
 先生夫妻に紹介された、ボランティアで、発行をしていらっしゃる冊子などに、自分自身の力で、短歌などを投稿できるようになりました。

 そして、私の身体と私の内面を常に支えて下さり、できるだけ私が、健常者と変わらない在宅生活を望んでいることを誰よりも、一番理解して下さっていて、私が尊敬と信頼をし、私の生涯を預けたいと想っている、私だけの羅針盤になって下さり、誰よりも親しくしてもらっている医師主治医の先生に直接、連絡できて私の心の想いを伝えられるようになったことをうれしく、幸せに思っています。

絵画グループ展参加

 2015年9月8日から9月13日に〔三宮ギャラリーミウラ〕で開かれた、グループ展〔縁・えにしゆかり展〕 (約30名)に参加させていただきました。

9月 2015アーカイブ


 約1メートルの壁画に私の作品を展示させてもらうことになり、未発表の油彩画の私の作品が無かったので、私は考えて、私の短歌を、私が30歳前後の頃に、手織ったり、染めたりして保管していた私の作品の布を、短冊に記した私の短歌のバックに使ってみたいと。

 文字を毛筆にすると誰かに書いて貰わなければならない。そして、私の短歌は、毛筆よりも活字体のほうが合うと思い、テプラ(名前や表示に用いるOA機器)を使用しました。
 私の短歌を印刷したテープを市販の短冊に貼ると、私の想像どおりに出来栄えが良く、これを私の作品の布に、止め附けてもらいました。
 良い作品になったと自負しています。
 何かの機会が有れば、主治医の先生に私の短歌を毛筆で書いていただきたいと。今回は、時間がありませんでした。

OA機器の進歩とともに

思い出すことが、いろいろあります。
 中学部時代、英語が始まり、英文タイプライターを両親に買ってもらっていましたので、キーボードの文字列を覚える手間が省けましたし、非常勤で勤めていた時には電動式の和文・かな・カタカナ文字タイプライターを使用。
 非常勤を辞めた頃から、ワープロが出回り始めたので、私は、ワープロを購入して独りで、使用説明書を見ながら、自由自在に使用できるようになりました。
 ワープロだと直線を引くことができるので、嬉しくて爽快でした。

短歌集

 ここ、数年で、人工呼吸器を導入してから随分、行動範囲が狭まってきました。
 沢山、短歌を創りました。 
 選び出すのに全部、色画用紙を短冊にして書き写してもらいました。取捨選択に大変迷いました。結局、全作品を載せることにしました。
 これが、今の私にできる精一杯の作品です。

 お世話になった方々、両親、姉、主治医の先生と美術の先生ご夫妻に感謝を込めて捧げます。

 惠子


ご覧くださってありがとうございます。

● 紙谷惠子歌集(全5ページ)● はこちらからhttps://note.com/kotiku/m/m64dd26ef5b52



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