ひだりがわ
◆1◆
ずっと、右側ばかりを見ていた。
買ってもらった雑誌やノベルズを読み終わって何も読むものがなくなってしまうと、私は右側を向いていたことが多かったように思う。
私のいるベッドから見て、右側には窓があった。
藍染厚生病院の私にあてがわれた個室の窓から見えるのは、病院の駐車場と、その向こうに見える藍染市の見慣れた風景だけ。
背の低い建物と雑木林、遠くに見える山々。
何の変哲もない日常のカタマリのような景色だった。
しかし、その日常こそ、私の欲してやまないものに間違いなかった。
だから、私は、することがなくなると窓の外を見続けたのかも知れない。
窓の外を見ると心が安らぐ。
看護婦さんには、「毎日、同じ景色ばかりで飽きるでしょう?」なんて言われてしまったけど、そんなことはなかった。
窓の外には、一日たりとも、一瞬たりとも、同じ景色なんてなかったから。
私の身体は不治の病に蝕まれている。
私の命がもう長くはないことは、だいぶ前にお医者様から聞かされていた。
初めて知ったときには、とてもショックだったよ。
だから、やがて来る自分の死を受け入れるために、私はとってもたくさんのの時間を費やしてしまった。
それに、迫り来る死を受け入れたつもりになっていても、窓の外に広がる夕焼けを見ていると、涙が溢れて止まらなかった。
「ひょっとしたら、お医者様の診断が間違っているかもしれない」
「画期的な治療法が発見されて、私の病気も治るのかもしれない」
「私はまだまだ生きられるかもしれない」
「助かるかもしれない」
──かもしれない、かもしれない……。
そんな根拠の無い希望が私を苦しめた。
希望というのはとても残酷だ。私を、幸せな空想の世界にいざなっておいて、やがて「そんな未来はありえない」と痛烈な現実へ叩き落す残酷な夢。
空想の中の私の姿は、皺くちゃのお婆さんだった。
縁側で日向ぼっこをしながら、お茶を飲んでいたりなんかして。
膝の上には、ダルそうな三毛猫。
その猫は、私が餌を与えすぎてしまったせいで、ぶくぶく太ってしまっている。
ポカポカの陽気と猫のあくびにつられて、つい大きなあくびをしてしまう私。
そんな私の大あくびを見て、私の隣りでやさしく微笑んでくれる大切な人。
その大切な人の顔もやっぱり皺くちゃで、その顔を見た途端、なぜだかわからないけど、私は泣いてしまう。
幸せすぎて泣いてしまうのだ……。
そんな空想の後、ふと私は気づく。
そんな未来は存在しない、あるはずないという事実に。
ありえない未来を思い描く行為は、私の心をズタズタに引き裂いてしまう。そんなことはわかっていた。わかっていたはずのに、私の心は、幾度となく残酷な希望に囚われ続けた。
君がその悪循環から私の心を救ってくれたんだよ。
君は突然やって来て、私の心の全てをさらっていってしまったね。
あの日、君が死神になって私の死亡予定日を教えてくれたあの瞬間から、私の心は残酷な希望の牢獄から解放されたの。
だから、君が私にしてくれたことは間違いじゃない。間違いなんかじゃないんだよ。
きっと、君は私に死期を教えたことを後悔しているんじゃないかと思う。
でも、気にしないで。
君のそのやさしさ、私に全部、伝わっているから。
◆2◆
あの日以来、私は右側をあまり見なくなったように思う。
君が、私の左隣のパイプ椅子に座るからだよ。
それにね、君が居ないときは、気がつくといつも個室の扉ばかりを見るようになった気がする。
扉も左側だね。
君が来るのが待ちきれなくって、ついつい扉を眺めてしまうの。
君には、お姉さん気取りで「授業をサボっちゃ駄目だよ」なんて言っちゃったけど、本当は「学校なんてサボっちゃえ」って思ってたんだ。でも、「サボっちゃえ」なんて言ってしまったら、君は本当に学校を休んじゃうのがわかっていたからね。我慢したんだよ。
扉のノブが音を立てると、まだ君が来る時間じゃないのに、「君が来た!」って思ってしまうんだ。
ねえ、聞いて。
この間、お母さんが病室に入ってきたときに、つい、「なんだ、お母さんか……」って言っちゃった。お母さん、また泣いちゃったよ。ごめんネ。お母さん。
とにかく私は、左側ばかりを見るようになって、夕暮れ時の窓の外を見なくなった。ありえない未来もあんまり想像しなくなった。
その代わり、君といる今を大事にしたいって思うようになったんだよ。
だからね、本当は皺くちゃになった君の顔を見てみたい気もするけど、我慢するね。
私がお婆さんになったところは、想像しないでくれたら、嬉しいな。
◆3◆
その日は、朝からとても調子が良かった。
これなら何時間立っていても平気でいられる、そう思った。
そして、これから先、そんな日が二度とやって来ないということを悟った。
だから、私は先生にお願いして、外出許可を貰うことにした。
君は、心配するだろうね。
でも、大丈夫、先生も、お母さんもわかってくれたもの。
君もきっとわかってくれる。
私は、ベッドの脇に置きっぱなしにしていたポーチを手に取った。
鏡を見ながら、慣れない手つきでファンデーションを塗る。
二年前を思い出しながら、眉毛を描く。
ビューラーなんて使ったの、どれくらいぶりだろう?
このルージュの色、もう流行遅れかもしれないなぁ……。
お化粧なんてして行ったら、君に笑われてしまうかもしれないね。
そうだ、たしか、この辺りに髪留めがあったはずだ。
君と出会ったばかりの頃にしていた髪留めとよく似てるヤツが、ひとつだけ。
ちょっと子供っぽいかもしれない。
でも、あれをしていこう。
あれをして君に会いに行こう。
きっと君は喜んでくれると思う。
私は、ポーチの奥から地味な髪留めをひとつ取り出した。
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