瞳の奥
とある日曜日。
安芸月依子は、前羽根市内にある遊園地にいた。
依子の住んでいる藍染市には遊園地らしい遊園地がなかったので、わざわざ電車で隣りの前羽根市までやって来たのだ。
なぜ、自分はここにいるのだろう? と彼女は不思議に思う。
遊園地に来ることなんて、彼女の兄がまだ生きていた頃以来だった。
「ねえ。私ね、遊園地に行きたいな」
恋人にそうねだったのは、確かに依子自身だったはずだ。
別に、どうしても遊園地に行きたかったというわけではなかった。
ただ、依子の学校のクラスメイトが「恋人同士は遊園地に行くものだ」と言っていたのを思い出したから、彼に言っただけにすぎない。
自分に残されたわずかな時間を彼とどう過ごすか。それが、依子が自分自身に与えた課題だった。
今、安芸月依子は、彼女が恋人と呼んでいる男性と二人で暮らしている。
その彼は、今、依子の手を引きながら「次はあのアトラクションに乗ろうか?」とか「あっちの乗り物は怖そうだね」などと言いながら、しきりにはしゃいでいる。
まるで、子供みたいだ、と依子は思った。
実際のところ、まだ彼と知り合ってから一週間ほどしか経っていない。
しかし、依子は彼のことが好きだった。そして、いつの間にか彼のことを好きで好きでたまらなくなっている自分に対して驚いていた。自分がこんなに他人に執着するなんて意外だ、と思う。
依子は、はしゃぐ恋人の横顔を眺めながら、彼が自分の頬に手を触れる瞬間のことを夢想する。それから、彼の手が不器用に自分の胸をまさぐるときの胸の鼓動を思い出した。肌と肌が触れ合う瞬間の吸い付くような感触と、彼のニオイ。それらの感覚全てが、今の依子の全てだった。
正直な話、依子は自分がもうすぐ死んでしまうということに対して、何の感情も抱いていない。
自分で自分の価値を理解できずにいたからだ。
自分にとって紙キレほどの価値もない自分の命である。いつ失ってしまっても惜しくは無かった。
だから、依子は、彼から死を宣告されたときも、別段、何も感じなかった。
しかし、彼はそのことが気に入らなかったらしい。もうすぐ死ぬという運命を背負う依子に対して「生きろ」とでも言わんばかりに、説教を始めたのだ。
その瞬間から、依子は彼に対して興味を抱くようになった。そして、彼の言う「生きる幸せ」というものを、見つけてみたいと思うようになっていた。
彼と出会って約一週間、いまだに依子はその答を探し出せずにいる。
自分の中のタイムリミットは刻一刻と迫りつつあった。
「あ、あれに乗ろう!」
依子の恋人は不意に立ち止まると、とあるアトラクションを指差して彼女に向きなおった。
彼が指差したアトラクションは「フリーフォール」という種類のものだった。
アトラクションは、自由落下の感覚を楽しむという意図でつくられたもののようだった。
客を乗せた座席が地上数十メートルの場所まで上っていき、急に落ちる。
もちろん、落ちたからといって地面に叩きつけられるわけではなく、ちゃんと途中で止まる仕組みになっている。まさに、安全設計というやつだ。
「スリルあったね~」
アトラクションを満喫したのか、彼は興奮気味に言った。
「そう?」
依子は首を傾げてみせる。
「特に何も感じなかったけど……」
「そう。俺は怖かったよ。思わず悲鳴をあげちゃったもの」
「うん、聞こえた。怖がってるのか楽しんでるのかよくわからなかったよ。ふふ」
「はは。どっちだろうな……」
「でも、可愛かった」
「かわいかった? 何が?」
「御崎さん。あなたが、よ」
依子は笑った。
アトラクションの楽しさはわからなかったが、恋人がちょっとしたことに一喜一憂するのを見ることはとても楽しくて有意義だった。
ジェットコースターにフリーフォール、そしてお化け屋敷など。さまざまなアトラクションを体験して、依子は気づいたことがあった。
どのアトラクションも「死への恐怖」というものと密接に関わっているような気がする、ということだ。
間近に迫る死への予感を体感することによって、自分には実際、死が近くないことを再確認するのだろうか?
だとすると、死に対して恐怖も興味も持たない依子がそれらのアトラクションを楽しむことなんてできないのかも知れない。
ちょっと残念だな、と依子は思った。
「こういう乗り物ってね、死ぬのが怖い人が乗るから楽しいんじゃないかな?」
思い切って彼に自分の考えを話してみる。
こういう話をすると、彼に怒られてしまうかもしれない。
でも、話してみたかったのだ。
「どういう意味?」
「死ぬかもしれないって思うからスリルを感じるんでしょ?」
「そう、なのかな?」
「あくまで私の予想。それとも、自分が生き残ったことに安堵するから楽しいのかな」
「……わからん」
彼は腕を組んで考え込んでしまった。
こんな意味のない会話でも、彼はまじめに考えて応えてくれる。依子はそれが嬉しかった。
「私ね、あれからいろいろ考えたんだけど、まだ自分が死ぬことに対して、何にも感じないんだ。だから、ああいった乗り物は楽しめないみたい……」
依子は恋人に、自分の考えを説明してみせた。
「まだそんなこと言ってる……」
「だって……」
「前にも言ったと思うけどさ、俺は依子ちゃんに死んで欲しくないと思ってる。だからさ、あんまりそういうこと言うなって」
「でも……」
「前にも聞いたよ。自分の命に価値を見出せないんだろ? でもさ、もうちょっと客観的に考えてみたらどう? 依子ちゃんの命に価値を感じるのは依子ちゃんだけとは限らないんだぜ?」
依子は必死で考える。
自分の命に価値をつけるのは自分じゃないってこと?
彼は、私が死んだら悲しむと言っていた。
だとしたら、この人は私の命に価値があるって思ってるのだろうか?
私だって、彼を悲しませたくはない。
それが「死にたくない」ということなのだろうか?
だとしたら、なんとなくわかる気もするな……。
依子は考えた。
そして、彼の言った「逆の立場」を考える。
もし彼が死んでしまったら、私はどう思うだろうか……。
もし彼が死んで……え?
そこまで考えて、依子は思考停止してしまった。
彼が死ぬ? 彼がいなくなる? そんなことは考えたことがない。考えたくもない。考えられない。
逆の立場? 私がいなくなると彼は……。
依子は呆然とその場に立ち尽くした。
「おい、依子ちゃん、どうちゃったんだよ、急に」
「あ……」
気がつくと恋人が依子の顔を心配そうに覗き込んでいた。
「あ、ううん。大丈夫、なんでもないの……。なんかいろんな考えが頭をめぐっちゃって……」
「フリーズしちゃった? よし、ちょっと気分転換でもするか」
「うん」
依子はうなずいた
「じゃあ、ソフトクリームでも買ってくるよ。その辺で座って食おうぜ」
「うん」
「ソフトクリーム食べたら、今度は、怖くない系の乗り物に乗ろう。コーヒーカップとかさ、それならきっと依子ちゃんでも楽しめると思う」
依子はうなずいた。本当はどんな乗り物でも、あなたと一緒なら楽しいんだよ、と心の中でだけつぶやく。
「じゃ、行ってくる。待ってて」
笑いながら恋人は、ソフトクリームを買うためにフードコーナーへと走っていく。
彼がこちらを見ていないことを確認すると、依子は、左目にはめていた眼帯をはずした。
そして、毎朝、彼を学校に送り出すときにしているのと同じように、ふたつの瞳で走り去る彼の後姿を見送った。
彼女は、できる限り、恋人の姿を瞳の奥に焼き付けておこうと思った。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?