#38 知り合いと友達の境界線
いつからこんなに人を選ぶようになってしまったのだろう。
LINEのグループを整理しながらそう思ってしまった。
もともとLINEのグループなんて1桁くらいしか所属していなかった人間が、大学生になって、びっくりするくらいに数が増えた。
増えすぎて、一時的に必要だったグループなどはもういいやって退会するようにした。
でも少々悩むものも存在する。
それは「今は関わりはない人たちとの思い出」が含まれているものだ。
たまにこうやって振り返ると、この頃の初々しい会話とか写真って面白いなあと感じてとっておきたくなる。
引っ越しと似ている。
引っ越しで捨てるのは物だがここで捨てるのはデータである。
ただ大きな違いがあって、それは捨てやすさだ。
LINEのグループは、退会というところをタップするだけで今までの全ての会話履歴とアルバムが閲覧不可能になる。
それはある意味見切りをつけたと捉えることができる。
そのグループが本当に今の自分にとって必要なのか。
そこには様々な判断材料があるが、「もう会話されてないから」が退会の理由には私はならない。
本当に大好きな人たちのグループは、しばらく動いていなかったからといって一生抜けたりしない。
反対に、ちょっと違うと感じたグループなら会話中でも問答無用で退会する。
その線引きが、タップ数回で完了してしまうことに、現代のSNSの普及で生まれてきた人の冷徹さを浮き彫りにしている。
対面で、「あなたは私とはなんか合わないからもう話しかけないで」なんて言えないのに、SNSの中だと、いとも簡単に人を選別することができる。
私はまだ、追加した友達の「整理」はしたことがない。
なんというか、グループを抜けることよりも重たいからだ。
この人はもう友達じゃないと決めつけるみたいでやりずらい。
そもそも、連絡先を交換した人を一括りに「友達」と呼んでいるLINEが不思議だったりする。
トーク順で並び替えた友達で下の下にいる人のどこが友達なんだ。
と、我ながらひどい奴になったもんだとか思うが、しょうがない。人間だいたいそんなもんだ。
こんな感じで、人間関係を簡単に可視化できてしまうツールは他にもある。
大学生から始めたインスタだって昔の自分からしたら、そんな知り合いおらんやろってくらいのフォロワーの数になった。
中には顔すら知らない、会話すらしたことのないフォロワーもいた。
メインアカウント(鍵つき)、裏アカウント(鍵つき)、公開アカウント。
インスタを初めて何カ月か経った頃3つのアカウントを作成してそれぞれで「棲み分け」をするようになった。
仲間内でしか伝わらない内輪ネタをあげたり顔が載った写真を投稿したりするするためには「本当の顔見知り」だけのもっと小規模のアカウントが必要だった。
フォロワーだけに留まらず自由に自分の好きなことを発信できるアカウントも必要だった。
じゃあ、一体メインのアカウント(鍵つき)は何のためにあるんだ?
そんな疑問を持ち始めたのは半年ほど前。
私のメインアカウントには小学校の時の知り合いから大学生になって知り合った人たちが全員混じっている。
自身の通う大学にまつわるストーリーを投稿する際には、「親しい友達機能」というものを使い、同じ大学に通っているフォロワーにしか見えないように設定していた。
その後、同じゼミの人だけ集めたさらに内輪色の濃いアカウントを作成し、そこでは顔も出していた。
つまり、私の知り合いは大きく3つの層に分かれていた。というか分けていた。
大学外の人、大学内の人、同じゼミ
その頃からメインアカウントを使用することは減っていき、投稿するとしても当たり障りのない風景などに限られた。
どちらかというと、メインアカウントはそのフォロワーの多さから見る専になっていった。
そしてさらにその後作った公開アカウント(旅アカ)には自分の好きな旅の写真をあげた。
するとメインアカウントはただ見るためだけに存在するようになった。
大学に入学した頃は様々な団体に所属し、その人たちのインスタを交換したためメインアカウントのフォロワーは一気に増えたが、今現在はそれらの団体はすべて辞めている。
なんだかいろいろ疲れてしまったのが主な原因だ。
なんて曖昧な理由だと言われても、それが決定的な理由だ。
それで思うのが、「親しい友達機能」なんてもういらないのではないか?ということだ。
大学生になって知り合ったフォロワーはほとんど全員親しい友達として扱っていたが、今考えてみると「親しい」ってなんだ??だ。
今でもその人たちと親しく話しているか?
いや、そんなことない。
一度親しい友達リストに入れた人がそのまま死ぬまで永遠に親しい友達のままなんて考えられない。あっても少数だ。
必ずどこかで「リストをいじる」必要性が出てきてしまう。
じゃあ、変に親しい友達リストをいじくるくらいなら、それごと消してしまえばいいのでは?って思ってしまった。
私の場合、知り合いと友達の境目はそもそもメインと裏でくっきりしているんだから。
最近は親しい友達リストという言葉自体がなんだか人の影の部分を露骨にしていて気持ち悪く感じてしまい、広げた風呂敷を畳むみたいに、このリストをなくしてしまおうと考えている。
だってリストをいじるだけで、親しい親しくないを決められるんだもの。
よくよく考えてみれば恐ろしい機能だよ。
使えば使うほど、人を選んでいる自分に辟易とする。
インスタグラムは本来自分が「いいな!」とか「すごい!」とかそんな新鮮な気持ちを自由に届けたり、誰かの投稿によって自分が知らない世界をたくさん教えてくれたりするものだと思う。
だから、親しい友達機能とか使わず、内輪ネタもそうじゃないものもすべて1つのアカウントのフォロワーに公開している人が、清々しくていいのではないか。
閲覧できる人を選ぶような投稿はそもそもしない。
難しいことも一切考えなくていいし。
まあこれは極端な話かもしれないが。
じゃあ、SNS抜きで、知り合いと友達の境界線ってどうやったら分かるか。
私は、「いつかを叶えられる人」が生涯の友達なのではないかと思う。
行けたら行くとかまた会おうねとかいつか一緒に旅行にいけたらいいねとか、未来に委ねるセリフってけっこうある。
就職すればそこの付き合いが増えるし、結婚して家族をもてば心のウエイトは必然的にそちらに重きをおくようになる。
それでも頭の片隅に残り続ける人はかなり限られる。
忙しい合間を縫ってでも会いたいと思える、そんな人が本当の友達ってことだ。
だから、本当の友達かどうかは今決められることではない。
だから今はただ自分に寄り添ってくれる人、寄り添いたいと思える人を大事にすればいい。
それでいいんだと思う。
線引きって罪悪感がすごい。
でも人との関わりが増えていけばそんなこと当たり前に自然と起こりうるもので、意外と自分を責めることでもないように思い始めたこの頃。
それがあまりに露骨すぎるLINEとかインスタに疲れるだけで。
子どもの頃はみんな仲良しを求められ、大人になれば複雑な人間関係を上手く立ち回ることが求められる。
それはまるで校則で縛られまくった高校生がいきなり自由だけど完全自己責任で全て頑張ってねの大学に投げ出されるみたいだ。
そりゃあ病む人も増えるはずだ。
本当に、現代を生きる人ってこんなにも頭を悩ませるもので溢れる中、毎日毎日頑張ってるんだな。
久しぶりに、短時間で衝動のように書いてしまった。
昔から一人っ子だからか、考え事に多くの時間を割くタイプだった。
今回は日記のように自分の気持ちを淡々と書いた。
後から自分で読み返したとき、なんて贅沢な悩みをしてるんだって笑い飛ばされるかもしれない。
なんなら、もし昔の自分がこれを読めたとしても、なんて贅沢な悩みだって怒られるかもしれない。
その頃は人を、嫌いかそうでないかでしか見てなかったから。
だから、それくらい、しょうもないことかもしれない。
でもこういう悩みを抱える人は多い。
悩みのポートフォリオ的な感じで、ここに残しておこうと思う。
知り合いと友達の境界線 おわり