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生きる
生きるとは何だろうか?生きるのは何故だろうか?
私は新潟に生まれ、新潟で育ち、今高校に在学している。私の趣味といえば1996年2月27日に発売されたゲームを始めとしたビデオゲーム。そして、今みなさんが読んでくれている文章の創作くらいであろう。特段休みの日にどこか街中に行って遊ぶような友達もいない。
そんな私の人生17年間で1度、親が震撼するほどの死にたい。という言葉を披露した。某ゲームのTCG(トレーディングカードゲーム)が、プレイヤーやコレクター、1番手に届くべきである子供達が、一切と言っていいほど買えず、高騰し手が届かない時代があった。それに目をつけた転売目的の輩がそれにさらに拍車をかけた。私ももちろん特別な人間ではなかったため購入できなかった。その際の一言である。
「私〇〇〇買えないなら死んだ方がまし!」
今冷静に考えても我ながらすごい事言ったと感じる。今でも鮮明に思い出すことができるほどのショックな事であった。本来手に届くはずのものが買えず、今まで積み上げてきたものが一瞬にして崩れるような感覚から出た死にたいという言葉。死にたいという心の叫び。これを聞いた親も、担任も、友達も異口同音に発した。
「生きたくても生きれない人がいる。」
そう言われる。当時の孤独感が延々と残っていた卑屈な私にも、この意味をはっきりと理解することができた。かと言って私の意見は揺るがなかった。さらに私を卑屈の沼に、深く深く引きずり込んでいった。
「生きたくなくても生かされている人がいる。」
「死にたくても死ねない人がいる。」
これらの言葉はどれも、AしたいけどAできない。という悲しみの意味が含まれている。これらの相互間に何の違いがあるのかが当時の私にも、今の私にも、全く理解できない。逆に他の人からすると死にたい人、生きたくない人の言い訳はわからないだろう。だから例え話をしよう。
私もみんなも様々なゲームをすると思う。もちろん、始めてそのままクリアする人も少なくは無いだろう。しかしこれをソーシャルゲームに絞るとどうだろうか?みんなはリセマラや引退という言葉を聞きいたことは無いだろうか?そして引退やリセマラをした事はないだろうか?私はする。データという人生をスタートして、無料ガシャを回す。良いのが出ればやっとゲームを始める。繰り返し、繰り返し。データを捨てて、新しいデータを始める。転生の繰り返し。良いキャラが出た後でも勝てなくなってしまったり、つまらなくなったりするとそのデータを引退する。ゲームと見比べて、何が違うと言うのだろうか?みんなはリセマラをせず、俗に言う弱いデータで敗北という逆境に一切の妥協を許さず、立ち向かうことができるだろうか?とは言え現実のゲームは簡単にできるリセマラや引退なんてないだろう。
それを踏まえて『生きる事』について本気で考えた。
そんな私がたどり着いた『生きる事』の考え方は『生きるに足るか否か』である。『生きるに足るか否か』と言う言葉は単語ひとつひとつそのままの意味であり、『生きる事に満足しているか、そうでないか』である。
今までの私の『生きる事』の指針は完全にゲームであった。そんな私がTCGが買えなかったとなると、もちろん生きるに足ら無くなった。その『生きる指針』が無くなった私だからこそのあの卑屈さであり、死にたいと言う言葉であった。
かと言う私は今もこうやって文章を書いている。書き続けている。生きている。それはもちろん、新しい『生きる指針』を見つけることができたからだ。と言っても、これまた特別なことはない。なんでもない極々普遍的なもの。それは文章を読み書きすることであった。文章は尽きない。文章は飽きない。自分のした経験を文章にすることで残したり、知ってもらえたり、共感してもらえたのである。逆もまた然りである。私はこの文章を書いているにあたって、今なおそれが『生きる事』の力になっている。という事が手に取るようにわかる。なんて事のない、日々に転がっている極々普遍的な『生きる指針』に命を支えられた。だから私は生きている。
今回は『生きる事』についてを軸にして文章を書いてきた。私なりの結論は『生きるに足るか否か』であって自分が生きるに足るのならば、そして生きることに満足しているのならば生きればいいだろう。しかし、生きるに足らない人もいるだろう。生きるに足らないならば、まず私のように頑張って、逆境に立ち向かって、新しい『生きる指針』を探してほしい。そして見つけてほしい。『生きる指針』は本当に極々普遍的なものであるから。けれどもそれでも辛いなら、私達に止める権利はないだろう。これが私の『生きる事』である。
そして最後に問おう。君たちは何故生きるのだろうか?