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好きな俳優(海外編7)

おはようこんにちはこんばんは\(^▽^)/!

こたつねこです。

今回は、映画『ダークナイト』でジョーカーを演じていた

Heath Ledger(ヒース・レジャー)氏

について書きたいと思います。

どうか最後までお付き合いくださいね!

(ここからはWikipediaさんに登場してもらいます)

ヒース・アンドリュー・レジャー(Heath Andrew Ledger, 1979年4月4日 - 2008年1月22日)は、オーストラリア出身の俳優。

ヒース・レジャー
Heath Ledger

ヒース・レジャー

本名:Heath Andrew Ledger
生年月日:1979年4月4日
没年月日:2008年1月22日
(28歳没)
出生地:オーストラリア・西オーストラリア州
バース
死没地:アメリカ合衆国・ニューヨーク州
身長:184cm
職業:俳優
ジャンル:映画
活動期間:1996年 - 2008年

主な作品

『恋のからさわぎ』
『パトリオット』
『ROCK YOU!』
『ブロークバック・マウンテン』
『ダークナイト』
『Dr.パルナサスの鏡』

受賞
アカデミー賞

助演男優賞
2008年『ダークナイト』

ニューヨーク映画批評家協会賞

主演男優賞
2005年『ブロークバック・マウンテン』

ロサンゼルス映画批評家協会賞

助演男優賞
2008年『ダークナイト』

放送映画批評家協会賞

2008年『ダークナイト』

MTVムービー・アワード

ベストキス賞
2005年『ブロークバック・マウンテン』
悪役賞
2008年『ダークナイト』

英国アカデミー賞

助演男優賞
2008年『ダークナイト』

ゴールデングローブ賞

助演男優賞
2008年『ダークナイト』

全米映画俳優組合賞

助演男優賞
2008年『ダークナイト』

その他の賞

インディペンデント・スピリット賞
インディペンデント・スピリット・ロバート・アルトマン賞
2007年『アイム・ノット・ゼア』

備考

故人のアカデミー賞受賞は、ピーター・フィンチ以来当時32年ぶり2人目

オーストラリアでテレビ・映画に出演した後、1999年に『恋のからさわぎ』でハリウッドデビューを果たす。当初はアイドル路線的な注目だったが、ほどなくして本人がこの路線を拒否し、以後出演作品を選ぶようになった。

『ブロークバック・マウンテン』(2005年)の演技が絶賛され、26歳でアカデミー主演男優賞にノミネート、一躍若手演技派俳優と目されるようになった。

その後も順調にキャリアを重ねていったが、2008年、睡眠薬などの薬物併用摂取による急性薬物中毒により急死した。死後、『ダークナイト』(2008年)の演技により、アカデミー助演男優賞を受賞した。28歳での同賞受賞は、史上4番目の若さだった。

生い立ち

1979年4月4日、西オーストラリア州パースにて生まれる。ファーストネームのヒースはエミリー・ブロンテの小説『嵐が丘』の主人公ヒースクリフに由来する。父親のキム・レジャーはレーサー兼鉱山エンジニア、母親のサリー・レジャー(旧姓レンショー)はフランス語教師だった。
レジャー家はスコットランド人とアイルランド人の血を引くパースでは有名な家系で、先祖は「レジャー・エンジニアリング・ファウンドリー」という鋳物工場を経営して、パースからカルグーリーへ至る有名なパイプライン建設の際には原材料を供給していた。また、ヒースの曾祖父の名前を冠した団体「サー・フランク・レジャー慈善信託」は、地元の大学に対して、講師を招いたり才能ある学生へ奨学金を支給するために財政援助をしており、地域の人々から尊敬を集めている。
ヒース・レジャーが11歳の時に両親は離婚した。その後、父親はエマ・ブラウンと、母親はロジャー・ベルと再婚した。兄弟には実姉(ケイト)と異母妹(オリヴィア)、異父妹(アシュリー・ベル)がいる。
学生時代はホッケー選手として活躍し、演劇部の部長を務めた。飛び級で16歳の時に高校を卒業。

キャリア

オーストラリア時代

10歳の時に地元の劇団に所属し、オーストラリア国内の舞台やテレビに出演。小さい役ながら1992年公開の『Clowning Around』に出演している。1996年、オーストラリアのテレビドラマ『Sweat』でレギュラー役をつかむ。番組自体あまり人気がなく、また役柄がゲイ役だったこともあり、この頃、街中で嫌がらせやいじめを受けることもあったというが、彼の演技は業界関係者の注目を浴び、これが本格的なキャリアの出発点となった。その後、1997年公開のオーストラリア映画『ブラックロック』で本格的に映画デビューを果たし、同年に全米放送のテレビシリーズ『Roar』でさらに注目を集めた。

ハリウッド進出

1999年公開の『恋のからさわぎ』でハリウッドに進出。この映画の成功で、ヒース・レジャーのもとにはアイドル路線的な役柄のオファーが殺到するようになったが、本人がこの路線を拒否し、エージェントにはシリアスで重みのある役柄を演じたいと申し入れた。しかし、大した実績もない駆け出しの若手俳優にそうしたオファーがそうそう来るはずもなく、その後ほぼ1年間、本人いわく「ヌードルと水」だけの貧窮生活を送ることになった。
2000年、ヒース・レジャーは『パトリオット』に出演してメル・ギブソンの息子役を演じた。この映画の評価自体は二分されたものだったが、レジャー自身は「メジャーなスターになれるだけの才能とルックスを備えている」と評価されるなど、その演技は好感をもって受け入れられた。
2001年公開の『チョコレート』では、ビリー・ボブ・ソーントンの息子役を演じた。冒頭40分足らずの出演であったが、その演技は「短いながらも強烈な存在感」との批評を得るなど、単なる若手アイドル俳優ではないことを示した。ダニエル・デイ=ルイスも、後年の全米映画俳優組合賞での追悼スピーチの中で、『ブロークバック・マウンテン』とともにこの映画での彼の演技を讃えている。
2001年公開の『ROCK YOU!』でハリウッド作品に初主演する。この作品は全米興行収入初登場1位を記録、約5600万ドルのヒットとなりトップスターの仲間入りを果たす。この年のピープル誌の「最も美しい人物50人」にも選出された。その後も『サハラに舞う羽根』や『ケリー・ザ・ギャング』、『ブラザーズ・グリム』など、様々なジャンルの映画に出演した。これらの映画において、ヒース・レジャーの演技はそれなりに評価される向きもあったものの、映画自体の興行がいずれもふるわず、また批評家からの作品レビューも辛辣なものがあった。

『ブロークバック・マウンテン』

2004年製作、2005年公開の映画『ブロークバック・マウンテン』にイニス・デルマー役として出演した。ヒース・レジャーは、せりふの少ないこの主人公の20歳から40歳近くまで20年に及ぶ役柄を、わずかなメイクと、あとは歯を食いしばるようなしゃべり方や声の調子を変えることで演じた。抑制的な、ときに激情を爆発させる彼の演技は、批評家からマーロン・ブランドやショーン・ペンのそれに比せられるなど、手放しの絶賛を受けた。
ヒース・レジャーはこの役でニューヨーク映画批評家協会賞などを受賞。また、史上9番目(26歳と302日)の若さでアカデミー主演男優賞にノミネートされ、映画芸術科学アカデミーの会員に招待された。
『ブロークバック・マウンテン』は2005年度の各映画賞を総なめにした。また、当初全米で5館のみという上映であったが次第に上映館を増やし、興行収入もこの種の映画では考えられないほど記録的なものになった。

『ブロークバック・マウンテン』以後

第64回ヴェネチア国際映画祭にて。左からリチャード・ギア、トッド・ヘインズ、シャルロット・ゲンズブール、ヒース・レジャー。

『ブロークバック・マウンテン』の後、ロマンティック・コメディ映画『カサノバ』に出演した。作品自体評価のあまり高くないドタバタ喜劇で、「レジャーのカリスマ性と知性は、発想が陳腐で演出も不器用なこのバロック風駄作には、もったいなさすぎる」(『英タイムアウト誌』)と、前作で名声を得た彼がこうしたB級映画に出ることを惜しむ批評もあったが、レジャー自身はこの映画の出演を楽しんだ。
2006年公開のオーストラリア映画『キャンディ』では、ドラッグに溺れる詩人志望の役柄を演じた。映画自体は『ブロークバック・マウンテン』以前に撮られていたが、公開は2006年まで先延ばしにされていた。低予算で作られた映画だったが、『ブロークバック・マウンテン』以降のヒース・レジャーの人気もあって、公開されるとそれなりの興行収入を叩きだした。彼の演技も「レジャーは、まっすぐに生きられない人間を、傑出した才能で演じた」「彼は冒頭からキャラクターになりきっている」(『ニューヨーク・タイムズ』)と評されるなど、批評家から高い評価を受けた。
2007年公開の『アイム・ノット・ゼア』では、ボブ・ディラン役を演じる6人の俳優の1人として出演した。この映画がヒース・レジャーの生前に公開された最後の映画となった。

『ダークナイト』

2008年の死後に公開された『ダークナイト』では主人公バットマンの宿敵ジョーカーを演じた。ヒース・レジャーは、一ヶ月間ロンドンのホテルにひとりきりで閉じこもり、ジョーカー独特の声や笑い方を作り上げるなどして圧倒的な役作りで撮影に臨み、ジャック・ニコルソンとはまた違ったジョーカー像を創造することに成功し、批評家から高い評価を得た。
この作品で彼はアカデミー助演男優賞、ゴールデングローブ賞 助演男優賞、英国アカデミー賞 助演男優賞など主要映画賞を総なめにした。故人のアカデミー賞受賞は、ピーター・フィンチ以来32年ぶり2例目となる。アカデミー授賞式には亡き本人に代わり、両親と姉が出席。父親のキム・レジャーは、「息子の演技を評価していただき、ありがとうございます」と礼を述べた。また、関係者にも感謝の意を伝え、「息子は映画の世界を愛していました」とメッセージを送った。また、同助演男優賞の中では史上4番目(28歳と324日)の若さでの受賞となった。
死亡時、テリー・ギリアム監督作『Dr.パルナサスの鏡』の撮影途中であったため、ジョーカーを演じた『ダークナイト』が遺作になるものとみられていたが、親友のジョニー・デップ、コリン・ファレル、ジュード・ロウが代役の出演を快諾して製作の続行が可能になり、無事に完成し公開された。なお、本作でのヒースの演技はカット・加工されることなく予定通り使用された。さらに、ヒースの代役を務めた3人は出演料のすべてを娘のマティルダに寄付した。

監督活動

ヒース・レジャーは映画監督業にも興味があり、生前いくつかのミュージックビデオでは監督をつとめている。2006年には、オーストラリアのヒップホップアーティストN'faのシングル「Seduction Is Evil (She's Hot)」やベン・ハーパーのシングル「Morning Yearning」のミュージックビデオを監督した。

突然の死

住んでいたアパートに置かれた献花

2008年1月22日、ヒースは映画『ダークナイト』の完成を待たずに、マンハッタンの自宅アパートで遺体で全裸の状態で発見された。28歳没。前年11月頃から不眠症となり、「とても疲れているのに二時間程しか眠れない」と映画『ダークナイト』出演に際してのインタビューでは睡眠薬服用を公言している。また、インタビュー時期は自身の婚約解消と別居が重なる時期でもあった。当時はインフルエンザにもかかっており、薬の併用摂取(特定の薬物を過剰摂取したわけではない)による急性薬物中毒による事故死だった。
1月26日にロサンゼルスで、2月9日に地元パースの学校で葬儀が行われた。

こたつねこがどうしてヒース・レジャー氏を好きになったのかと申しますとやはり映画『ダークナイト』でのジョーカーです。徹底した役作りとバットマンのこれぞジョーカーだというのを世に知らしめた感が半端じゃないのが凄いなぁと思ったのがきっかけでした。
(以後「」内は余談です)
「もっともその当時は後年YouTubeのパチスロ/パチンコ実践動画でそっくりメークのYouTuberさんに出会うとは思ってもいなかったし、ファンになるとも予想もしていませんでしたが…」
(閑話休題)
悪役なのにかっこいいと思ったのはこのヒース・レジャー氏が演じたジョーカーだけです。
それほどインパクトがありました。
生きてらしたらもっともっと凄い俳優さんになられていたと思うので若すぎる死が悔やまれてならないです。

『ダークナイト』

『Dr.パルナサスの鏡』

《おしまい》

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