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祖母の面会/自分が自分の親になるイメージって何?

今日は父と母と弟と私の4人で祖母に面会した。
弟は祖母の病院に行くのは初めてだった。

祖母は前回より元気そうだった。自分の母のことを話していた。笑顔も見ることができた。

面会の後、皆で先生からお話を聞いた。

栄養を入れるポートが化膿してしまってもう使えない為、高カロリーの栄養はもう入れることができなくなってしまった。

このポートを手術で取って、再度設置する事もできないらしく、ペースメーカーと中で繋がっている可能性があるため、手術する方がリスクが高いとの事で、本人が痛みを訴える事も無いから、化膿したポートはそのままにするとの事だった。

ポート栄養の代わりに、今、点滴で一日300〜400カロリーの栄養と心臓に負担のないように利尿剤等のお薬を入れている。

前よりは体力が落ちていき、眠る時間が増えるだろうとの事だった。

これからどういう形で最期を迎えるのかを聞いた。
先生は考えられる色々なパターンの可能性を説明してくれた。それは皆が納得できるような内容だった。

最期のときの苦痛を和らげるケアなどはできないかと相談したところ、がん治療と同じようなお薬は使えないらしいけど、なるべく本人の負担のない形でお薬を使って、息苦しさや痛みを緩和するような事はしてくださるとの事だったので少し安心した。

ただ、精神薬や医療麻薬的なものは加減が難しいらしく、息苦しさの緩和で使うことで、逆に呼吸が止まってしまう可能性もあるから慎重に投与しなければならない、死期を早めてしまう可能性にも繋がると仰っていて、そのことは夫の時のことを思い返すととても理解できる。

私は坐薬でそのお薬を入れた後、すぐに夫の全身が真っ青になりチアノーゼ状態になった事、それで訪問医療の先生にすぐに電話して、もう今晩で最後かもしれないと言われた時の事を、恐らく一生忘れることはできない。夫はその次の日の朝に息を引き取った。

あのお薬を入れた事で、死期を早めてしまったのなら、私が殺したようなものなのだろうかと自分を責める事もある。だけど、すでに息がほぼできず声も出せず苦しそうで限界だったのだ。どうすることが正しい選択だったのか分からない。
だけども、もしも、それで背負った罪ならば、人生のどこかのタイミングで私自身がその報いを受けることになるだろう。

先生に挨拶をして、皆で遅めのお昼ごはんを食べにファミレスに行った。

改めて、弟がものすごく特別扱いされていることがよく分かって、それはやっぱり男の子で弟だからなんだろうなと思う。とにかく身体の心配をされていたし、私に言うようなお金のことやお葬式の事は一切弟には言わない。あとは孫の話や奥さんの話をしたりしていた。

私はというと、親に会った時、いつもお葬式の話とお金の話ばかりしてくる。
前回は脅すみたいにしてお葬式が終わった後の納骨の時も(本当の金額より10倍の金額で)「全部出してもらえるよね?私たちは出せないから。」と言ってきたりして、すごく嫌な気持ちになった。
心臓が痛くなる理由のひとつにたぶんこれがあると思う。

私の両親には「みんなで一緒にどうにかしていこう」という考えが何故か無い。
そして何故か弟にものすごく気を遣っている。
弟は自分たちの老後をみてくれるかもしれないし、可愛い孫にも会わせてもらえるから…という考えがあるのか、弟自体をまだ小さい可愛い子供のように思っているのか、よく分からない。もう40歳だと思うけど。

そして、私は何故か、自分達が背負いたく無いもの全てを背負ってくれる存在として、あるいは何かあった時のATMとして頼られている。
それは、私が夫を亡くした時に色々とお葬式などしたから慣れているからという理由らしいけど、私には本当に意味がわからない。

一番腹が立ったのは、今回の大事な話をする面会を二人してサボろうとした事だった。
「母はリハビリがあるから行かない。」と言い出したので、実の子供が一人も参加しない大事な面会って祖母が可哀想にも程があるだろう…と思って、「リハビリは別の日にできないの?」と聞いたら、「そうだよね。私は行かなきゃだめだよね。」と言ってて呆れた。

父も「俺は行く必要あるのか?」と言い出したりして、私は絶句した。なぜ行かなくて良いと思うのか逆に分からない。

考えたく無いこと、受け止めたく無いことなのはわかるけど、今も祖母は生きていて、点滴をされていて、いつどうなるか分からないのに、なんで大事なことから逃げようとするんだろう。そして、祖母の子ども三人のうち二人の息子は連絡がとれない。
連絡が取れる母は逃げようとする。
祖母の実の子供達の三人の中で、誰ひとりとして、祖母の事に向き合って、最善の策を先生と相談して、看取っていこうという人がいないのが、本当に悲しい。

今日言われたことの一番傷ついたのは、「あなたはこういう事に慣れてるから。」だ。
これも毎回のように言われる。

私が人の死に慣れてるわけがなくて、私の何を見てきて、そんな事が言えるんだろう。
今日だって、どうにかなりそうだからアルプラゾラム半錠を飲んでから病院に向かっていた。
夫が亡くなってから、私がどんな風に毎日を生きてきたか、今もどんな風に苦しんだりしているのか、自分のことばかりで、何も想像がつかないんだろうな。昔からそうだった。いくら認知症があったとしても、あまりにもひどいと思う。

今日あまりにも腹が立ったし、事実なので、「私は健康診断で心臓に何かあることが分かって、突然死のリスクがあるらしいので、もし突然亡くなったらごめんなさい。」と言ったら、

母は「それは困るよ。あなたがいなくなったらおばあちゃんのことどうするの?」と言いだした。

私だったらたぶん身体の心配をする。
この人は自分のことしか頭にないんだなと思った。

「死んでしまったら、残念ながら何もできないからごめんなさい。その時はみんなでどうにかしてください。たぶんすぐには死なないと思うけど。」と言った。

***

こういうことがあると、やっぱり私は心の底から親のことを信頼することはできないな…と改めて思う。
弟も話したことはないけど、そういう部分はありそうだなと思う。私よりは無いかもしれないけど。

あまりにも悲しいと泣く事もできないもので感情がない。
でも、救いなのは大人になって彼らから離れて暮らすことができていることだ。戸籍も抜けているから一緒の墓に入ることもない。
孤独死は、色々と問題はあるけど準備しておけばすがすがしく逝けるからいい気もする。ますます終活が重要性を増してきたな。(終活の前に就活をしなければならない…)

正直、こんな風に自分がいろいろ考えてしまう事がつらい。
愛着障害のようなところが自分の中にあって、まだ愛されたいとか思っているところがあって、さみしいとか悲しいとか感じる気持ちがある。それがつらい。期待したようなことは絶対に起こらないし、望んだことはいつだって叶わない。いつだって信じたら裏切られる。そんなことはよく分かっているはずなのに。

これを乗り越えるには、自分が自分の親になるイメージをするといいらしい。どうやったらそのイメージを持てるようになるんだろう。

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