「僕じゃ駄目かな?」からはじまるマイケル・ジャクソンの伝説に学ぶこと。
この10日間、夢中になって追いかけていた。
調べて、調べて、調べて。マイケル・ジャクソンの輪郭を少しずつ浮き彫りにしていく。知りたくなってさらに追いかける。
「魅力がない人なんていない」
だから興味の扉は開けておこう。なにかある。気になること。知りたいこと。かならずそこにはあるから、まず調べてみよう。ということを僕は、つねづね企画の講義でいつも伝えている。そう信じられるようになったのは、あらゆる領域の企画をするようになったからだと思う。
2015年から僕は「企画でメシを食っていく」(通称:企画メシ)という連続講座を主宰している。そこでは、毎回ゲスト講師の方をお招きして、課題をいただき、企画する。「カップラーメンからロケットまで」というのは商社の仕事の幅広さを伝える言葉だけど、企画メシも「食から宇宙まで」と企画する範囲はとにかく広い。そして、やることで楽しくなってくる。
今回のゲスト講師は、音楽プロデューサーであり、ノーナ・リーヴスのシンガーでもある西寺郷太さんによる「音楽の企画」。
西寺さんからいただいた課題はこうだ。
「10日間でマイケル・ジャクソンの好きな1曲を見つけ、その理由をA4・1枚にまとめてください 」
僕はほとんどマイケルのことを知らなかった。会社の余興で「スリラー」を楽しくみんなで踊ったことがある。映画「THIS IS IT」は見逃してしまった。有名な曲は聞きかじったことがあるけど、ほぼ何も知らないところからのスタートだった。
ただ、ラジオが好きな僕は、TBSラジオの「小島慶子 キラ☆キラ」で西寺さんが豊富な知識でマイケルを語っている熱は、思い出に焼き付いていた。そこにはなにかある…きっとなにかあるぞ!と思いながら、この10日間、少しでも時間があればマイケル・ジャクソンの音楽を聴き、マイケル・ジャクソンにまつわる本を読んでいた。
結果、ハマった。
「いやあなた遅いよ!」って話だけど、すんごいハマった。
すごいよマイケル。魅きつける力の塊だった。それがわかったものの、どうまとめるか。それがいちばん重要だ。
作詞の仕事が好きで、創作の現場の逸話が好きな僕、だからこその目線で、まとめていこうと思い至った。いくつもの本を広げながら、深夜、夢中になって書き上げていった僕の興奮ポイントが伝わるとうれしい。マイケルの伝説はどこからはじまり、誰と、どこへと向かっていったか。それを3つのエピソードから。
※※※
「僕じゃ駄目かな?」
返事ひとつで運命は変わる。19歳のマイケルは、映画「ウィズ」の撮影中だった。撮影現場は、とにかくおしゃべりの時間が生まれる。そして、そこから何かが生まれていく可能性がきわめて高い。マイケルは、こうもらしたという。
「ねえ、僕、ソロ・アルバムを作る予定なんだけれど、誰かプロデューサーとして推薦してもらえませんか?」
レコード会社のモータウンから、作詞・作曲の自由を求めてエピックに移籍したものの、次失敗すればよもや契約終了かという所まで追い込まれていた。
移籍のゴタゴタで、「ジャクソン5」の名前は使えなくなり「ジャクソンズ」に。すでに知られた存在ではあるものの、もう一段階の突き抜けが必要な状況。しかもマイケルはソロで表現をしたい欲求も持っていた。
マイケルの会話の相手になっていたのが、映画「ウィズ」の音楽監督を務め、ビルボード1位の実績もある、当時44歳のクインシー・ジョーンズだった。何人かの名前があがりつつ、なんとなく気乗りしない咳ばらいが出たり、ごもごもしたり、最後にクインシーが言った「僕じゃ駄目かな?」
マイケルは、自伝「ムーンウォーク」で回想している。
「僕がそれとなく、ほのめかしているように彼には聞こえたのかも知れませんが、そのつもりはなかったのです。彼が僕の音楽に、興味を抱いているなんて、まったく考えてもいなかったのです」
この雑談から、マイケルがすべてをコントロールしたソロ・アルバム「オフ・ザ・ウォール」が生まれる。
マイケル自身が初めて作詞作曲を務めた「Don't Stop 'Til You Get Enough」も収録。アルバム発売に先行してシングルカットされた曲で、ビルボードで1位を獲得。グラミー賞の最優秀男性R&Bボーカル賞も受賞するなど、爆売れした曲だ。メロディを聞けばみんな一度は聞いたことがあると思い出すと思う。
クインシーが、25歳年下のマイケルに対して、正直に気持ちを伝えずに、はぐらかしていたらこの傑作は生まれていなかったと思うと・・・
一緒にやりたい時は、照れてる場合ではない。そこから伝説がはじまることもあるんだから。
快進撃はつづく。マイケルとクインシーは、3年後もタッグを組み「スリラー」でギネス記録を叩き出す。自分で作詞・作曲をする、プロデューサーの意見を取り入れ、練り上げていく。ソングライターとしても圧倒的な成長をしていくマイケルは、その次のアルバム「バッド」を経て、クインシーから離れる。
1991年、「バッド」の次のアルバム「デンジャラス」の先行シングルで「Black Or White」をリリース。「人種・民族・国境といったすべての違いを乗り越えて理解し合うこと」というメッセージが多くの人に受け入れられ、世界20か国のチャートで1位を獲得する。
もう少し時計の針を進めて、2000年前後の話で、強く印象に残った話を紹介したい。
「外で新しい音を見つけてくるんだ。石やおもちゃを片っ端から叩いたり、袋にガラスの破片とマイクを入れて投げたり、いろいろやってみて」
(いろいろってなんだよ!!)
プロデューサーのロドニー・ジャーキンスは、内心思ったに違いない。
モニカの「エンジェル・オブ・マイン」で全米1位に輝き、勢いに乗るロドニーがマイケルのためにつくった20曲は全ボツになり、放たれた言葉が「いろいろやってみて」だった。
当時のロドニーは、20代中盤(それもそれで凄いことだが)マイケルとの初仕事「ぜったいに決めてやる〜!」と気合も入っていたにちがいない。まじかよ…と、呆然としたのではないだろうか。
ちなみに、マイケルはスタッフのやる気を引き出す天才だったそうだ。映画「THIS IS IT」でも、スタッフとの会話シーンがある。
みんなよくやってる。このまま突き進もう。全力でやってほしい。忍耐と理解を持って。これは素晴らしい冒険だ。
ライブのリハ、音を聞くイヤモニの音が大きすぎることを指摘する時はこうだ。
怒ってないよ、愛なんだ。
さらに、たとえ方もおもしろい。リアルに想像が浮かぶ言葉を選ぶ。
耳に拳を突っ込まれているみたいだ。
ロドニーの話に戻す。
この時期ロドニーは、2000年6月にリリースされる宇多田ヒカルの「タイム・リミット」をプロデュースもしていた。
20代の半ばで、宇多田ヒカルと並行して、マイケル・ジャクソンと仕事をする。すごい世界があるもんだ。
マイケルの独創的な音楽づくりを、長い間、マイケルの代理人として活躍したフランク・カシオが著書「マイ・フレンド・マイケル」の中で述懐する。
ドアストップのバネを弾いて録音し、その音をいろいろいじってスネアと合わせるといった方法で、これまでにないオリジナルのサウンドを作るのだ。袋の中に石ころ、おもちゃ、金属片にマイクを一緒に入れ、プチプチシートにくるんだDATを外に巻きつけて階段の上から投げたこともあった。そうやって、録音された音をマイケルはすべて抽出して鍵盤に割りつけ、ミックスしたり音程を変えたりしていた。
その貪欲さったらないですよ。
新しい音を見つければ、新しい音楽になる。マイケルの信念が垣間見れる。100の候補曲から完成したのが2001年のアルバム「インヴィンシブル」だった。
ロドニーとマイケルが共同でつくった、表題曲「インヴィンシブル」をはじめとする6曲が収録されている。マイケルが43歳の時だった。
2001年9月に出た「サウンド&レコーディング・マガジン」で、ロドニーはマイケルとのレコーディング体験をこう回想している。
あるとき、マイケルの曲のミキシングをしていたんだけど、その日は午後10時という遅い時間から作業をはじめることになって、マイケルが「ミックスを聴けるのは何時頃になる?」と聞いてきたから、ぼくは「多分夜中の3時くらいかな」と答えたんだ。するとマイケルは驚くことに3時ピッタリにスタジオに現れて「さあ、聴かせてくれ」と言ったんだ。彼はとにかく音楽に対して真剣だね。だから彼の作品はいつだって時代の先を行っていて、他のアーティストのアルバムよりいい音を出しているんだろうね。まさしく自分が出したい新しいサウンドを完璧に理解しているからだよ。
確固たる成功を収めた一方で、マイケルは次第にマスコミの批判や偏見にさらされ、金銭目的で訴えられることが多く、2003年までに訴えられた案件は1,500回にも上っていた。
しかし、マイケルは有罪判決を受けたことは一度もない。人間不信やスキャンダルに苦しむ中で、制作をともにしていたのは年下の旧知の友人だった。
旧知の仲であるエディーとだったからこそ
制作をともにし、マイケルを支えたのはエディー・カシオだった。長い間、マイケルの代理人として活躍したフランク・カシオの弟で、3歳の頃からマイケルと友達になり、一緒にツアーを巡り、ネバーランドでも過ごしたことのあるエディー。
その後、音楽家の道を進む、26歳のエディー。
音楽家として駆け出しではあったものの、マイケルと共につくりあげていた楽曲の1つが、マイケルが「マイケル自身」をテーマにした楽曲「ブレイキング・ニュース」だった。僕はこの曲が好きだ。
Everybody wanting a piece of Michael Jackson
Reporters stalking the moves of Michael Jackson
Just when you thought he was done,
he comes to give it again
They can put around the world today
He wanna write my obituary
みんなマイケルジャクソンの話題ならなんでもいい
レポーターたちはマイケルジャクソンをつけ回している
ついにマイケルもネタが尽きたと思ったとき
マイケルはまたもやらかしてくれる
あいつらは今日 世界に送ろうとしてる
なんならあいつは 僕の死亡記事を書きたがってる
No matter what you just wanna read it again
No matter what you just wanna feed it again
なにがなんでも 君もまた読みたいんだろ
なにがなんでも 君もまた広めたいんだろ
Why is it strange that I would fall in love (fall in love)
Who is that boogie man you're thinkin' of (thinkin' of)
Or am i crazy cause I just eloped
This is breaking news
This is breaking news
僕が恋に落ちたからってなにがそんなにおかしい?
いったいどんな化け物を想像してるんだ?
それともどうだ 寛大な僕がどうかしてるのか?
これはニュース速報です
これはニュース速報です
訳:阿部広太郎
僕は、マイケルの日常を歌ったこの曲が好きだ。
マイケルがテーマにしたのは、世間の「マイケル像」。みんなマイケル・ジャクソンのニュースを見たいんだろ、あいつらは僕が崩れ落ちていくのを見たがっている。
歌詞に出来たこと、それは好奇の目にも晒された壮絶な過去を乗り越えた証でもあると感じる。完璧主義者で素を見せないマイケルの、ふざけんな、という人間くささが溢れているような感じが好きだ。
それが出来たのは、旧知の仲であるエディーとだったからこそだと想像する。
マイケルが亡くなったのは2009年6月25日、享年50歳。その1年後、2010年に生前の未発表曲を集めたアルバム「マイケル」にこの曲は収録されている。
生前にこの曲がリリースされなかったことがとても悔しい。世間に対するマイケルの強烈なカウンターパンチを、堂々とライブで披露してほしかったと、没後10年の今、思う。
マイケルは人と出会い、変わり、翻弄もされ、それでも信じた人と音楽をつくり、その曲は今でも聴き続けられている。マイケルの残した名言がある。
僕はどんなことにも決して満足しない。
僕は完璧主義者で、それが僕という人間なんだ。
ツアーが出来なかった心残りが映画「THIS IS IT」を生んだ。
生前未発表曲がアルバムになり、いくつもの憶測を生んでいる。マイケルでさえも、死後は不完全でコントロールできない。でも、その不完全さゆえに、マイケルの存在は、多くの人の中で想像が広がっていると感じる。
最後に、フランク・カシオの「マイ・フレンド・マイケル」から引用したい。
他の多くのポップカルチャーに対しても、マイケルは同じように強い興味を示した。音楽ランキングのベストテンをチェックし、ニューヨークタイムズ紙のベストセラー本リストにも目を通していた。このことは、世間の人々がどんなものを見たがり、聴きたがっているか、どんな体験をしたがっているかについて、マイケルが驚くほど精通していた秘訣のひとつだ。
調べれば調べるほど、まぎれもない天才ではあるけれど。
調べれば調べるほど、真剣に泥臭く創作に取り組み続けた人間だとも感じる。
ああ、あまりにも魅力的で、A4・1枚におさまらずに6,000字近くも書いてしまった。著書を通じて、マイケル・ジャクソンのことを教えてくださった西寺郷太さんに感謝。
10日間すげー楽しかったです。エンタメに関わる一人の人間として、めちゃくちゃ勉強になりました。
★参考文献★
目次からしてテンションが上がる。時系列でマイケルを理解できる一冊↓
マイケルの代理人を務めたフランク・カシオから見たマイケル。アーティストとの向き合い方としてとても勉強になる。イエスマンにならない、相手にちゃんと伝える大切さを感じる↓
マイケル本人が語るこれまでのこと。リアル。マイケルを育て、のちに決裂したモータウンの創設者のゴーディーによる序文も見どころ↓
映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観て感じるものがあった人はぜひこちらも。マイケルのすごみを映像で感じます↓
マイケル・ジャクソンのことを知れて、ほんとうに良かった。
こちらの僕の著書も、もしよかったら…!
以上。ここまでお読みいただき、ありがとうございました!