落合陽一さんの個展「裸性と身体性」を見てきた
仕事終わりに落合陽一さんの個展「裸性と身体性」を見に行ってきた。在宅勤務や出張が多い身で新宿に行くには出社したタイミングで行くのがいい。丁度今日(4/25)がそれだった。明日は在宅だし、明後日からは出張で、開催期間が5/1までのこの個展を見に行けるのは今日しかなかった。
仕事が終わって新宿へ向かった。
新宿まで来たのはいつぶりだろう。新宿へ来た最後の記憶は2020年以前だ。covid-19が世界中に蔓延してからの社会では新宿へ足を運ぶことはなくなった。あ、嘘。
2020年12月のクリスマスに新宿へ行ったのが最後かな。お互いクリスマスを過ごす相手のいない寂しい者同士でごはんに行き、俗に言うワンナイトをする始まりの場所は新宿だった。今となってはそんなこともあったなという感じだ。新宿にはいろんな思い出があるが、新宿への思い出はそのうちまた別のnoteで書こうかな。
そんな新宿に久々に来るきっかけをくれたのが落合陽一さんの個展だ。
JR新宿駅の東口を出てアルタ前から出て北村写真機店へ行った。そもそも新宿駅のすぐ近くにこんなカメラ屋さん(=写真機屋さん)があったなんて知らなかった。北村写真機店の何階でやっているのかも調べずに来てしまったからひたすら階段を昇った。結果として6階だったから結構昇った。登りきった頃には息切れをしていた。
とても小規模な個展だったからすぐに展示スペースの全体を見渡すことができた。個展の紹介文を読みながら息を整え、息が整い始めた頃に作品を見始めた。
展示数が少ないからすぐに見終えてしまったが、数回程見返してじっくりと作品を味わった。
プラチナプリントで印刷された作品なので、全てモノクロで表示されている。色彩表現として味わい深いものであった。
「裸性と身体性」というタイトルの個展なだけあって展示作品はヌード写真。しかし、“エロさ”はなかった。全くもってなかった。エロいという感情は一切なく、荘厳で神秘的なものに見えた。
人間の身体と物の違いは何なのだろう?
物質という意味では本質的に同じなのではないか。
プラチナプリントで白黒で出力することで身体性が強調される。身体の一部が強調される。目や髪の毛の黒さや色としての力が強調されていた。
そんなことを思っていた。
何も纏わないからこそ、人間の身体とそれ以外が区別されていたし、人間が人間として存在しているようにも見えた。空間に物と人間が共存しているようにも見えた。
ひとつ言えることは間違いなく美しいということだ。
人間がモノのようにも見え、人間が人間たらしめられているようにも思えた。装飾品の跡が肌についているところからも身体性を感じたし、日常では絶対にとらないポージングと装飾品の組合せが一つの芸術作品としての形を成していたようにも思う。
衣類を纏わないことで強調される、際立つものが間違いなくあった。まだ自分の中に落とし込めていないし、咀嚼しきれていないからか、言葉がうまく出てこない。だが、確実に感じ取ったものはある。
ファッションショーなどのモデルさんの方が服としてのモノに覆われているからか、人間というよりは服を纏ったモノ若しくは人間ではないナニカに見えたりもするのかもしれない。
衣類を何も纏わない≠エロい
というのは改めての大きな気づきである。しかし、それは被写体から恥じらいが感じられなかったからなのかもしれない。
裸=エロい
そう思うのはそこに恥じらいがあるからなのか。
一切のエロさがない被写体の目力の強さはこちらが吸い込まれてしまいそうなほどだった。あの力強さこそが生命体なのかもしれない。衣類を纏わないことで眼力が協調されているような気もした。
静止画の中から動きを感じるのは色や装飾品、表情からだ。今回はプラチナプリントだから色はない。何も身に纏っていない。そうなると人の動きが出るのは顔になる。顔の表情がよりフォーカスされやすくなる。そこをうまく捉えたものが作品として展示されていたのだろう。
私以外にも見に来てる人が数人いた。みんな何も言葉を発せず、じっと作品を見つめて作品からにじみ出るものを受け止めようと、受け取ろうとしていた。こういう個展や展示会での人々の姿が好きだ。それぞれの捉え方や受け止め方がある。だけど、共有することはない。でもそれでいい。各々個展のどこかしらに興味を惹かれて同じ場所に集ったということがなんだか尊いことのように思える。
元々人と一緒に来ようと思っていた今回の個展だったが、結果的に1人で行くことになった。でもそれでよかったと思っている。作品と1対1で向き合うことができてよかった。
人と会うのも人と過ごすのも好きだし、大事なことではあるが、自分と向き合う時間を確保するのも大事なことで、個展などに行って静かに自分の思考を整理する時間はこれからも定期的に確保していきたい。